素直さの涙と五輪メダリスト

 安青錦は14日目を終え、豊昇龍、大の里の両横綱とともに3敗でトップに並んだ。大の里が左肩鎖関節脱臼によって千秋楽を休場したため、対戦相手の豊昇龍は不戦勝。安青錦が賜杯を手にするには格上を連破しなければならない状況となったが、本割で大関琴桜、優勝決定戦では豊昇龍を撃破した。ドラマチックな瞬間でも、初優勝シーンでたまに見られるガッツポーズなどはなし。喜びを胸にしまい込みながら、力士らしく淡々と勝ち名乗りを受けた。

 しかしその後、体全体で歓喜を表す場面があった。花道を引き揚げる際、泣きながら待ち受けていた付け人と抱擁。安青錦自身も目元を拭う仕草が印象的だった。土俵上の表情とのギャップで余計に人々の心を揺さぶり、メディアで盛んに取り上げられた光景。この付け人の名前は、浅香山部屋に所属する序二段の魁佑馬だ。身長173㌢、体重182㌔のどっしりした体格で押しを得意とする。普段は明るいキャラクターで、アマチュア相撲界の事情にも詳しい25歳の好漢。素直さゆえに涙をこらえ切れなかったのだろう。そして、ある五輪メダリストとの縁も見逃せない。

 東京都練馬区出身の魁佑馬は小学生時代から相撲に打ち込んだ。本人によると、その頃に何度も対戦したのが、2024年パリ五輪柔道男子90㌔級銀メダルの村尾三四郎(JESエレベーター)。ちなみに大の里も昔、村尾と相撲を取ったことがあると話題になった。魁佑馬の記憶では、同い年の村尾と5度顔を合わせて2勝3敗。「最初の方は勝っていたんですが、途中から柔道の内股みたいな技で負けていました」と明かす。相撲と柔道で進路は分かれたが、パリ五輪のときにメッセージを送ったら返信があったという。「いつも応援しています。彼の活躍を見て、自分も頑張ろうと刺激になります」。最高位は三段目。思いを新たに幕下昇進に向けて鍛練に励んでいる。

 関取の身の回りの世話をする力士は「付け人」と呼ばれ、芸能界などの「付き人」とは呼称が異なる。これは一般的にその関取の師匠が人選をすることから「親方が付ける」、あるいは関取の立場からすれば「親方から付けていただく」との意味合いがある。安青錦は「お世話になっているし、新十両に上がってからずっと付いてもらっている」と感謝を口にした。同じ伊勢ケ浜一門の安青錦を支えながら、さまざまなことを学んでいる魁佑馬。角界特有の有意義な関係性が、感動的なシーンを生み出した。

13年前とは異なる雰囲気

 同じ千秋楽に判明した大の里の休場は衝撃的だった。師匠の二所ノ関親方(元横綱稀勢の里)によると13日目の安青錦戦で左肩を痛めたという。初土俵以来初めての休場で2場所連続、今年4度目の制覇は霧散した。

 優勝争いに影響を及ぼす上位力士が千秋楽を休んで波紋が広がった事態としては、2012年夏場所の大関琴欧洲(現鳴戸親方)の例がある。この場所は14日目終了時点で、3敗のトップで当時大関の稀勢の里、平幕の栃煌山、旭天鵬の3人が並び、1差で横綱白鵬ら3人が追う大混戦だった。しかし、栃煌山との取組が組まれていた琴欧洲が右足靱帯損傷で千秋楽当日に休場を表明し、大きな批判を浴びた。理由として指摘されたのは、賜杯争いの興味をそいだという意見や、14日目のうちに休場を届け出ておけば取組を変更する「割り返し」ができた(その頃は千秋楽の割を打ち出し前に決定)という点だった。当時の北の湖理事長(元横綱)も千秋楽の協会あいさつで「琴欧洲が休場いたし、誠に遺憾」と異例の名指しで言及。報道陣の取材に「お客さまに申し訳ない、のひと言」と手厳しかった。琴欧洲の師匠、佐渡ケ嶽親方(元関脇琴ノ若)が「足をつけないということだった。くるぶしの上まで腫れて、相撲を取れるような状態じゃない」と説明したのに、方々から非難ごうごうだった。

 対照的に、今回の大の里の休場には世間的にさほど批判的な雰囲気は漂わず、回復を見守るムードに包まれている。賜杯の行方を左右する横綱同士の決戦がふいになったにもかかわらず、脱臼という負傷の程度や、時代の流れもあるのか。一つには、師匠である二所ノ関親方の現役時代の出来事にも行き着く。新横綱で臨んだ2017年春場所。稀勢の里は13日目に左上腕などを痛めながら強行出場し、奇跡的な優勝を飾った。しかし代償は大きく、翌場所から8場所連続休場するなど、短命の横綱に終わった。弟子には同じ轍を踏ませたくないとの判断も無理はない。

 ただ、安青錦が本割で琴桜に敗れていれば4敗に後退し、その時点で豊昇龍の3度目の制覇が決定するところだった。不戦勝の豊昇龍は相撲を取らずして優勝の勝ち名乗りを受けるという、拍子抜けするような展開に陥る可能性もあったのは事実だ。2年連続して年間全90日でチケット完売という2025年最後の本場所のラスト。安青錦は「目の前の一番に集中してやることができた」と本割を制し、優勝決定戦に持ち込んだ。この時点で既に、盛り上げの〝救世主〟になったといえる。

母国の最強ヒーローとの共通点

 ロシアに侵攻された母国から、力士になることを目指して2022年に来日した。日本語は流ちょうで、相撲の研究熱心さも光る。師匠の安治川親方(元関脇安美錦)と臨んだ26日の昇進伝達式でこう口上を述べた。「大関の名に恥じぬよう、またさらに上を目指して精進いたします」。飾ることのないシンプルな言葉。ウクライナ出身で初めて、日本の国技で看板力士の称号を背負う決意がこもった。

 闘いぶりや芯の強さは、ウクライナのスーパーヒーローを想起させる面がある。ボクシングの世界ヘビー級3団体王者、38歳のオレクサンドル・ウシク。戦績は24戦全勝(15KO)。米専門誌「ザ・リング」選定の全階級を通じた最強ランキング「パウンド・フォー・パウンド」でも、世界スーパーバンタム級4団体統一チャンピオンの井上尚弥(大橋)らとトップを競い合い、つい最近まで1位に君臨していた。1階級軽いクルーザー級から転向。ヘビー級の中では決して大きくない体格でも卓越した技術やスピード、タフな精神力を生かして大男たちをなぎ倒してきた。安青錦自身も他のスポーツで応援している選手としてウシクを挙げている。

 最近のハイライトといえば昨年5月。自身より10㌔以上重いタイソン・フューリー(英国)との統一戦で強烈な左フックを見舞うなどしてダウンを奪い、史上初めてヘビー級で世界主要4団体王座統一に成功した。直近では今年7月に敵地ロンドンで、ダニエル・デュボワ(英国)に5回KO勝ち。戦禍に苦しむウクライナ国民の期待を一身に浴びながら、世界各地で勝利を重ね、祖国を勇気づけている。安青錦も182㌢、140㌔と体格はいずれも幕内平均を下回る。それでも、顎を引いて低い体勢で攻めるスタイルを貫き、初土俵以来大勝ちを継続している。「全てを強くしようと思って毎場所やっている」と向上心はとどまるところを知らない。

 現在の角界は、いずれも今年最高位に就いた大の里と豊昇龍の「大豊時代」とも称される。しかし大の里は脱臼で1カ月の安静加療が必要との診断。武器の一つである左おっつけへの影響が心配される。豊昇龍は9月の秋場所、そして九州場所と2場所続けて優勝決定戦で屈し、横綱としての初優勝に足踏み。そこに安青錦が新入幕から所要5場所のスピードで大関に昇進し、瞬く間に割って入ってきそうな勢いだ。安治川親方や同部屋の力士、付け人らとともに歩む頂点への道は、鮮明に描かれている。


高村収

著者プロフィール 高村収

1973年生まれ、山口県出身。1996年から共同通信のスポーツ記者として、大相撲やゴルフ、五輪競技などを中心に取材。2015年にデスクとなり、より幅広くスポーツ報道に従事