新庄剛志について

名前新庄剛志(シンジョウツヨシ)
生年月日1972年1月28日
日本
出身福岡県福岡市南区
プロフィール小学校4年から野球を始め、西日本短大附属高校ではエース。1989年ドラフト5位で阪神に入団。外野から遊撃に変わり、二軍で活躍。3年目の1992年5月対大洋(現・横浜)戦で季初スタメンの初打席、初球をたたいてプロ1号本塁打を記録。

1993年からセンターに定着し、ベストナインに選ばれる。1999年の春のキャンプでは監督に就任した野村克也から投手を命じられ、登板した。同年5月初の月間MVPを獲得。2000年10月FA宣言し、12月3年総額3億1千万円で大リーグのニューヨーク・メッツに移籍。2001年4月開幕からレギュラーとして活躍。日本人初のサヨナラヒット、4番を打つなど勝負強さを見せメジャーに定着。同年の成績は10本塁打、56打点、打率.268。同年初のエッセイ「ドリーミングベイビー」を刊行。

NPB時代の通算成績は1,411試合、5,163打数1,309安打、205本塁打、716打点、73盗塁、打率.254。ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞7回。

MLB時代の通算成績は303試合、876打数215安打、20本塁打、100打点、9盗塁、打率.245。181センチ、76キロ。右投右打。2000年元タレントの大河内志保と結婚、西日本短大附属高卒

天才少年は甲子園出場を逃すも、プロスカウトの目に留まる

福岡県に生まれた新庄剛志は、幼少期から何のスポーツをやらせてもすぐにこなしてしまうという抜群の運動神経を持っていました。小学生時代からソフトボールを始めると、大人顔負けの肩の強さを見せます。自身で少年野球チームを作るなど野球にのめりこむと、中学時代にははっきりとプロ野球選手を夢見るようになりました。

西日本短期大学附属高等学校に進学して野球を続けると、1年生から外野手レギュラーに抜擢されます。その強肩から時にエースで4番としても活躍しますが、甲子園を賭けた最後の夏は本来の外野手として出場しました。あと1勝で甲子園にたどりつくという県大会決勝戦ではサイクル安打を達成しながらもチームは敗れ、全国舞台で暴れることはできませんでした。しかしこの活躍を見た阪神タイガーススカウトの目に留まり、1989年ドラフト5位で指名され入団しました。

亀山努と共にフィーバーを起こして、一気にスターダムにのし上がる

入団後2年間はほとんどを二軍で過ごしましたが、3年目の1992年から一気に阪神の主力へと成長していきます。5月にトーマス・オマリーの故障離脱で急遽先発出場のチャンスを掴むと、第1打席目の初球を本塁打して甲子園のファンの心を掴みます。同年は5年目の亀山努も初めて一軍に定着しており、前年まで無名だった二人がタイガースの外野手のレギュラーを確保しました。新庄剛志は、強肩をいかした鉄壁な守備とチャンスに強い打撃でチームを上昇気流に乗せました。優勝争いに加わり、最後に2位となりましたが、6年ぶりのAクラス入りに貢献し、虎のプリンスという愛称も定着しました。

阪神不動の外野手として成長し、野村監督時代は4番打者として定着

1993年には、終盤に阪神史上最年少の21歳で4番打者も務めて、23本塁打を放ちます。同年は初のゴールデングラブ賞にも輝き、名実共に阪神を代表する選手へと成長しました。しかし、それとは裏腹にチーム成績は一向に上がらず、1993年からはBクラスを抜け出すことが出来ません。熱狂的なファンの新庄剛志に対する期待は大きいがゆえに、あがらない調子に対して時に応援をボイコットされるようなこともありました。

しかし1999年から監督に就任した野村克也には、その才能を多いに評価されます。野村ID野球はデータ重視でしたが、超人だけは別格でした。そして同年はその超人ぶりを多いに発揮します。6月に甲子園で行われた巨人との首位攻防戦は、自身が同点本塁打を放ち延長戦に突入していました。12回裏1死一三塁で打席が周ってくると、巨人バッテリーは敬遠を選択します。通常なら投球を大きく外しますが、投手・槙原寛己の初球はバットに届きそうな距離でした。そこで新庄はあえて打席から遠く立ち、打ち気を消します。2球目を投じた瞬間、内側に踏み込んでバットを一閃すると、誰もが唖然とする中、ボールはレフト前に転がるサヨナラヒットとなっていました。2000年には、年間を通じて4番を任されると、チーム三冠となる打率.278、28本塁打、85打点をマークし、ゴールデングラブ賞も5年連続で受賞しました。

誰もが驚いたメジャー挑戦も、しっかりと爪あとを残す

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2000年オフFA権を宣言すると、阪神はもちろんヤクルト、横浜など3球団がいずれも総額10億円越えのオファーを提示しました。しかし新庄剛志が活躍の場に選んだのは、年俸額も大きく下がるニューヨーク・メッツでした。日本の安打製造機イチローと共に、日本人野手初めてのメジャーリーグ挑戦でしたが、誰もが無謀な挑戦だと批判されました。

しかし持ち前の明るいキャラクターと実力で、世間の評価を崩していきます。マイナーから這い上がり、開幕戦に代走から出場すると初安打、さらに本拠地初戦では本塁打を放ってニューヨークのファンに受け入れられます。さらに、終盤には日本人初となる4番打者にまで抜擢されました。2年目はサンフランシスコ・ジャイアンツにトレード移籍し、スーパースターのバリー・ボンズらとともに日本人初となるワールドシリーズへ出場しました。3年目は再びメッツに復帰しましたが、怪我もあって出場機会は激減し、同年でメジャー挑戦にピリオドを打ちました。

パ・リーグで日本球界復帰すると、有終の美を飾る日本一で引退

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この時点でまだ31歳、しかも絶大な人気を誇るプレイヤーには多くの日本球団が手を挙げます。新庄剛志が選択したのは、2004年から本拠地を北海道に移すことになっていたパ・リーグ日本ハムファイターズでした。そして、自身の目標に「札幌ドームの満員」と「チームの日本一」の二つを設定します。同年はプロ野球再編問題によってストライキも勃発していました。しかしファンを惹きつけるプレーや様々なパフォーマンスなどで、野球人気復活に尽力します。成績的にも同年の打率.298は自身キャリアハイでした。

2004年から4位、5位とBクラスから抜け出せず、3年目を迎えると前代未聞の行動に出ました。2006年シーズンが開幕して間もない4月、同年限りでの現役引退を発表したのです。するとスターの有終の美を飾ろうと、ナインは奮起します。当時球団最多タイ記録の11連勝をマークするなど終盤まで優勝争いをリードし、ついにシーズン1位通過を決めました。その勢いは全く衰えることなくポストシーズン、さらには日本シリーズをも制します。入団当初掲げた二つの目標は達成され、新庄劇場は最高の形で幕を閉じました。

引退後は日本を離れ、インドネシアに移住して第二の人生を歩む

有言実行で現役生活を引退した新庄剛志は、国内で様々な活動をした後、2010年からはインドネシア・バリ島へ移住しました。野球からは完全に離れ、モトクロス競技に取り組みプロレーサーを目指す日々を過ごしています。それでも、自身は野球殿堂入り候補のプレイヤー部門に掲載されているので、いつの日か、その名が刻まれるときが来るかもしれません。


VictorySportsNews編集部