清原和博について
名前 | 清原和博(キヨハラカズヒロ) |
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生年月日 | 1967年8月18日 |
国 | 日本 |
出身 | 大阪府 |
プロフィール | 岸和田リトル・シニア両リーグでエース兼4番打者を務め、両全国大会で準優勝投手に。シニアでは3打席連続ホーマーを記録。PL学園高校に進み、1年夏から4番打者、一塁手に。5季連続甲子園出場を果たし、優勝2回、準優勝2回、ベストフォー1回を経験。
高校では通算64本塁打、甲子園では打率.440、13本塁打(個人通算最多記録)を記録。巨人入団を希望していたが、1986年のドラフト会議で西武に1位指名されて入団。 開幕2試合目にホームランを打ってデビュー、5月からはレギュラーの座をつかむ。9月には4番バッターとなり、この年打率.304、31本塁打、78打点という驚異的な成績をあげ新人王を獲得。1989年6月21歳9ケ月で通算100本塁打、1992年6月には24歳9ケ月で通算200本塁打(ともに史上最年少記録)を達成。同年FA資格を得るが、権利を行使せず残留。同年FA宣言し、5年契約、年俸3億6000万円、総額18億円で巨人に移籍。 2000年一時二軍落ちし、一軍復帰後は代打での登場が多くなる。同年7月通算400本塁打を達成。同年の契約更改では4000万円増で2年ぶりに3億円の大台に乗る。2001年6月対阪神戦で史上7人目となる3イニング、3打席連続の本塁打を放つ。オールスターにはプロ入り以来15年連続で出場。右投右打。2000年モデルの木村亜希と結婚。 通算成績は2,338試合、7,814打数2,122安打、525本塁打、1,530打点、59盗塁、打率.272。最高出塁率2回、最多勝利打点1回、新人王。PL学園高校卒、右投右打、188cm、104kg |
PL学園時代、KKコンビとして一世を風靡し5季連続甲子園出場
大阪で生を受けた清原和博は、野球を始めた小学3年生時には身長155cmという規格外の体格でした。すぐに才能を開花させてエースに4番としてリトルリーグ時代を過ごすと、中学時代には強烈なスラッガーとしての風格も漂わせていました。多くの高校からの勧誘のを受ける中、天理高校とPL学園との二者択一となり、最終的にはPL学園への進学を選択します。全国から精鋭が集結した中でも、目指すはやはりエースで4番でした。しかし、小柄だった同級生・桑田真澄に投手としての才能をまざまざと見せ付けられると、投手断念という決断を下しました。
後にKKコンビと呼ばれる1年生二人が、異次元の才能を持つ事は即証明されます。1983年夏に、4番清原、エース桑田として激戦区大阪大会を制して甲子園に自身初出場します。準決勝では快進撃を続けていた水野雄仁率いる徳島・池田高校に完勝して、一気に主役の座に登りつめると、そのまま全国優勝も成し遂げました。その後の高校時代は、5季連続甲子園出場し、3年生最後の夏では2度目の全国制覇を実現。清原和博が甲子園で放った13本塁打は、甲子園通算最多本塁打記録として、2017年現在もアンタッチャブルレコードとなっています。
希望する巨人からの指名はなく、涙の西武ライオンズ入団
甲子園で一世を風靡した怪物は、超高校級スラッガーとしてプロ球団注目の的となります。逆指名制のない当時は、希望球団にすんなり入団できるわけではありませんでしたが、自身の希望は子供の頃から大ファンだった巨人入りでした。しかし、その巨人は、早稲田大学への進学を明言していた桑田を単独で1位指名しました。一方で清原和博には当時最多タイ(高校生指名としては最多)となる6球団が1位指名し、抽選の結果、西武ライオンズが交渉権を獲得しました。愛する巨人からの指名を得られず、記者会見では涙すら見せましたが、母親の説得もあって、パ・リーグ西武ライオンズでプロ野球人生をスタートさせることになりました。
西武黄金時代に絶対的4番打者として君臨
開幕スタメンの座こそ逃した清原和博ですが、2戦目途中に初出場すると、2打席目に初安打となる本塁打を放って周囲の度肝を抜きました。その後、好不調の波こそありましたが、本塁打を積み重ね、9月後半にはついに4番に抜擢されます。その試合で新人最多本塁打タイ記録となる31号を放つなどチームの優勝に貢献しました。日本シリーズでも全試合4番を任されるなど、常勝チームの主砲に君臨していきました。
2年目のシーズンとなった1987年、西武は巨人との日本シリーズに勝利し2年連続日本一を達成します。王手をかけていた第6戦では、あと1アウトで憧れだった巨人に勝利というとき、守備位置で涙を流す純情な姿も見せました。その後も投打共に戦力充実した西武は、常勝時代に入り、清原も自身が入団した1986年以降、9年間で8度のリーグ優勝に6度の日本一を成し遂げます。この間、不動の4番打者として、秋山幸二、デストラーデらと強力クリーンナップを形成しました。右方向への天才的なバッティングや、抜群の勝負強さを備えもち、毎年のようにオールスターにも出場と、名実共にトッププレイヤーとして西武を支え続けました。
FA宣言し憧れの巨人のユニフォームを着るも、苦難続きで最後は戦力外通告
1996年オフ、清原和博はFA宣言して、憧れだった巨人入りを叶えます。1997年の開幕戦には3番松井秀喜のあとを打つ、4番として巨人デビューしました。そして、高校時代の盟友・桑田真澄が1年間のリハビリからの復活で先発登板した開幕第3戦には、移籍第1号を放つなど順調なスタートを切りました。しかし、夢にまで見た球団でのプレーは上手くいかず、厳しいシーズンの連続となります。執拗なインコース攻めに苦しむほか、下半身の故障に悩まされかつてのように不動の4番打者を務めることができませんでした。
西武よりも注目度の高い巨人において、戦犯扱いされることも少なくなく、孤立していきます。2000年、2002年とチームが日本一を獲得したシーズンも、ともに半数程度の出場に留まりました。2004年には、通算2000本安打、2005年には史上8人目の500本塁打も達成しましたが、同年オフには契約延長されず、自身初めてとなる屈辱の戦力外通告を味わいました。
膝の持病に苦しんだ晩年、故・仰木彬氏の誘いに応え、オリックスで現役引退
巨人を追われた38歳の清原和博に花道を用意してくれたのは、当時オリックス・バファローズのシニアアドバイザーであった仰木彬でした。直後に、仰木自身が他界してしまいましたが、プロ野球人生最後に、初めて関西を本拠地とする球団に身を置きました。持病の膝への負担を軽減するの為、20キロの減量に成功してシーズンに臨みます。レギュラーに定着することはできませんでしたが、21年連続二桁本塁打を記録して意地を見せました。しかし翌2007年は、故障が癒えず自身初の一軍出場ゼロに終わります。そして2008年に、ついにバットを置きました。
チームの勝利に徹することを信条とした清原は、多くの日本一を経験しました。しかし歴代5位の通算525本塁打という数字を残しながら、打撃部門タイトルとは生涯縁がありませんでした。それでもお祭り男の異名をとった強打者は、歴代1位のオールスター戦MVP7回、さらに、通算サヨナラ安打20本、サヨナラ本塁打12本も歴代1位という記録を持っています。
かつての怪物のまさかの逮捕劇は、野球ファンを多いに悲しませる
長らく野球界に貢献し、名球会入りも果たした清原和博は、将来、監督やコーチとして、再びユニフォームをまとうことが期待されました。しかし、2016年2月驚きのニュースにファンは絶句します。覚せい剤取締法違反(所持)容疑で、警視庁に現行犯逮捕されたのです。5月の初公判でも起訴内容を認め、懲役2年6か月(執行猶予4年)という有罪判決されると、控訴することなく、そのまま刑が確定しました。
プロ野球界で、指折りの成績を残したため、2014年から野球殿堂プレーヤー部門で候補者入りをしていましたが、当然のように候補から除外されました。もちろん復帰の可能性は残されていますが、その道は大変険しいとされています。