中村俊輔について
名前 | 中村俊輔 |
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生年月日 | 1978年6月24日 |
国 | 日本 |
出身 | 神奈川県横浜市 |
プロフィール | 幼稚園からサッカーを始め、中学時代に横浜Mジュニアユース在籍し、96年U‐19アジア選手権に出場を果たす。97年1月の全国高校サッカー選手権では大会No.1の指令塔として注目され、卒業後は横浜マリノス(現・横浜Fマリノス)に入団しました。その後、レッジーナ、セルティック等を経て、現在はジュビロ磐田で活躍するサッカー選手です。
00年Jリーグ第1ステージ優勝に貢献、JリーグのMVPを獲得。同年2月A代表デビュー、9月にはシドニー五輪代表として予選リーグ突破に貢献しました。強烈で正確な左足のキックでチャンスを作る。178センチ、69キロ。 |
ジュニアユースを経験し、高校サッカーのスターに
中村俊輔がサッカーを始めたのは3歳の頃でした。中学生になると中村は横浜Mジュニアユースに所属して、2度の全国制覇を経験します。しかし、当時身長が160センチ台だった中村はレギュラーから外されただけでなく、高校生主体のチームであるユースへの昇格ができませんでした。高校サッカーの名門校、桐光学園に進学します。
高校でも中村はメキメキと頭角を現し、2年生になるとチームを全国高校サッカー選手権大会に導いただけでなく、3年生の頃には全国高校サッカー選手権大会で準優勝にチームを導きました。中村の活躍は日本のサッカーファンの間はすでに知れ渡り、サッカー界のスター選手として期待される存在になりました。
マリノス入団後、史上最年少でJリーグMVPに
高校サッカー界一のスター選手となった中村俊輔は卒業間もない97年、地元横浜のクラブである横浜マリノス(現・横浜Fマリノス)に入団します。
新人選手ながら中村はリーグ戦に27試合出場して5得点を記録しました。のちの中村の代名詞ともなるフリーキックを引きさげて、Jリーグを席巻します。中村の活躍は国内だけにとどまらず、FIFAワールドユース選手権にも出場して、コスタリカ戦で1得点を決めました。これらの活躍が認められて、97年の新人選手として表彰もされました。
翌98年も中村の勢いは衰えず、33試合に出場して9得点をマークします。マリノスには欠かせない存在へとなりました。さらに99年にはシドニーオリンピックの予選で司令塔役を任されるという大抜擢を受けます。シーズンは出場試合数こそ26試合に減りましたが、それでも7得点を決める活躍を見せました。
そして迎えた00年、シドニーオリンピックのサッカー日本代表に選出された中村は4試合に先発出場を果たし、日本の決勝トーナメント進出に大きく貢献します。またこの年にJリーグのMVPに選出されました。22歳での受賞は史上最年少という記録を作りました。
その後、中村は日本サッカー界の代表ともなり、中でも日韓開催となった02年のワールドカップではスター選手として注目を集めていました。しかし、この年の5月に代表合宿で足首を痛めてしまい、代表メンバーからまさかの落選となります。日本中が盛り上がる中で悔しい思いをしました。
レッジーナへ移籍。活躍を世界の場へ広げる
ワールドカップが終了した直後、中村俊輔はイタリアのセリエAのチームであるレッジーナに移籍を果たします。中村は低迷するレッジーナの救世主的な存在になり、すぐにレギュラーを奪取しました。プレイスキックを任されるようになるとたちまち得点を積み重ねて7得点を記録しました。中村の活躍もありレッジーナはセリエAに残留することができました。
翌03年の中村はFIFAコンフェデレーションズカップ2003に出場して3得点を挙げるなど、代表としての出場を優先したためにレッジーナのリーグ戦出場は激減します。しかし、04年にはほぼスターティングメンバーとして戦い、クラブ創設以来最高順位に貢献しました。同時にAFCアジアカップ2004では決勝戦で日本の全3得点に絡んで最優秀選手に選ばれました。
その後、中村は05年の3月にはレッジーナの歴代ベストイレブンに選出され、6月に行われたFIFAコンフェデレーションズカップ2005でベストイレブンに選出されました。この時の活躍を見ていたセルティックFCの監督ストラカンに高く評価されたことがキッカケで、07年7月にスコッティシュ・プレミアリーグのセルティックFCへと移籍します。
移籍と同時に中村はレギュラーを掴み、リーグ優勝と国内カップ戦優勝の2冠を達成しました。さらに翌06年にはドイツワールドカップの日本代表に選出されました。4年越しの悲願を果たしました。
しかし、肝心のワールドカップで日本代表はまさかの惨敗を喫しました。中村もオーストラリア戦で自身唯一の得点を記録した以外は目立った活躍がなく、期待外れに終わります。
しかしドイツワールドカップ終了後、中村はセルティックに戻ると再び輝きを放ち、日本人として初のUEFAチャンピオンズリーグに出場し、マンチェスター・ユナイテッド戦で初得点を記録します。
その後、09年にはスペイン1部リーグのRCDエスパニョールへ移籍しますが、残念ながら中村はここでは活躍できずに終わってしまいました。
マリノスへ復帰も、17年にはまさかの移籍
スペインではいまひとつだった中村俊輔ですが、10年に突如として古巣である横浜Fマリノスに復帰をします。史上最年少MVPに輝いたスター選手の復帰に、ファンは歓喜に包まれました。
その初年度、リーグ戦34試合中32試合に出場し、5得点を記録しました。伝家の宝刀とも言えるプレイスキックは健在で、中村の黄金の左足で幾度となくゴールを決めていきました。
しかし、ワールドカップと中村の相性の悪さは変わらず、南アフリカで行われたこの年のワールドカップにも日本代表として出場こそしますが、グループリーグ第2戦目のオランダ戦に途中出場するのみに終わりました。結局日本は決勝リーグに進出はしたものの敗れ、中村自身この大会を最後にして、代表引退を発表しました。
代表からは姿を消した中村ですが、Jリーグでの活躍は続きました。13年には自身初となる年間リーグ得点数が2ケタを超え、さらに通算17得点目を直接フリーキックで決め、遠藤保仁が持っていたJ1のフリーキック最多得点記録を更新します。
この成績が決め手となり、JリーグMVPを受賞しました。中村はこのタイトルを史上最年少で獲得していますが、13年に獲得した時にはすでに35歳でした。これはJリーグ史上最年長のMVP記録となっています。
しかし、35歳でも第一線でプレーを続ける中村は度重なる故障に見舞われるようになります。14年までは30試合以上に出場していた中村も15年~16年は続けて19試合の出場にとどまります。
そして16年のシーズンオフ、マリノスはシティ・フットボール・グループの意向によってチームを支えた多くの功労者たちに減俸・戦力外通告などの措置を取ります。中村はこの方針に不信感を募らせ、結果的にジュビロ磐田へ移籍をしました。功労者の退団にマリノスファンは大きく落胆することになりました。
中村は17年シーズンより新天地のジュビロ磐田でプレーし、現在もなお活躍中です。