金本知憲について
名前 | 金本知憲(カネモトトモアキ) |
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生年月日 | 1968年4月3日 |
国 | 日本 |
出身 | 広島県広島市南区 |
プロフィール | 小4で野球を始め、中学時代は投手、広陵高時代は三塁手兼投手でした。東北福祉大では3番で通算23本塁打を打ち、1991年には大学選手権優勝に貢献しました。92年ドラフト4位で広島に入団し、99年には34本塁打をマークしました。00年打率3割、30本塁打、30盗塁をマークし、セリーグ会長特別賞を受賞しました。同年チーム史上最高額となる2億2200万円で契約更改しました。その後、広島不動の4番打者を務めるも、2002年オフFA権を行使して阪神に移籍しました。
03年、05年のリーグ優勝に大きく貢献し、08年には2000本安打を達成しました。10年には連続フルイニング試合出場が途切れるもののギネス世界記録に認定されました。11年には連続試合出場も途切れ、12年限りで現役引退し16年からは阪神監督に就任しました。 通算成績は2,578試合、8,915打数2,539安打、476本塁打、1,521打点、167盗塁、打率.285。打点王1回、MVP1回、ベストナイン7回、セリーグ会長特別賞。広陵高校、東北福祉大学卒、右投左打、180cm、85kg。 |
東北福祉大学時代に大きく頭角を現し、広島東洋カープに入団
両親共に在日韓国人2世の金本知憲は、広島県で生を受けます。そして後に「アニキ」の愛称で有名になりましたが、実は4人兄弟の末っ子でした。野球との出会いは小学4年生の時でしたが、一度は途中で投げ出してもいます。その後、ソフトボール、軟式野球を経験すると、中学3年時には高校野球の監督が自身をスカウトに来るまでの選手になりました。
初めてプロ野球選手を夢見始め、地元の名門・広陵高校に進学します。しかし理不尽な縦社会にも苦しみ、甲子園にも縁がありませんでした。法政大学進学を希望しましたが、セレクションを受けられず1年間浪人生活を送ります。その1年後に、後のプロ野球選手になるメンバーが多く在籍する東北福祉大学への進学が決まりました。1年からレギュラーを奪うと、仙台六大学リーグでは無敵状態となり、4年連続で全日本大学選手権に出場します。4年生時にようやく決勝戦を制し、初優勝を達成しました。この頃には、大学日本代表にも選出されるようになり、1991年ドラフト会議において広島東洋カープから4位指名を受けました。
筋力トレーニングで肉体改造に着手し、4年目にはレギュラー獲得
念願のプロ野球選手になりましたが、プロの世界は甘くありませんでした。当時は今と全く異なり体の線が細く、完全なるパワー不足でした。そこで金本知憲は、肉体改造へ取り組み筋力トレーニングを欠かさないようになります。その効果は徐々に現われ、3年目の1994年には17本塁打と頭角を現しました。
1995年、5番打者として開幕スタメンに選出されると、後半に骨折するものの初めて規定打席に到達します。24本塁打、67打点と中軸として働き初のベストナインにも選出されました。そこからは外野手レギュラーに定着し、1996年には初の打率3割、翌年には初の30本塁打も達成しました。打撃部門のタイトルレース10傑には必ずといっていいほど顔を出すようになり、1999年からはいよいよフル出場の記録もスタートします。
史上7人目のトリプルスリーを達成するなど、広島カープ不動の4番に成長
2000年からの広島東洋カープは、前年まで4番を務めていた江藤智がFA移籍で不在となり、オーダー変更を余儀なくされます。穴を埋める4番打者は年下の前田智徳に譲り、金本知憲は5番打者としてスタートしました。しかしシーズン途中に前田が離脱すると、不動の4番として君臨します。同年は打撃3部門すべてがリーグ5位までに入り、盗塁数も一気に増えて30の大台に到達します。そして最終戦で30号アーチを放ち、史上7人目のトリプルスリー達成者となりました。
2001年からは2年連続で全試合4番として出場し、広島カープの顔となりました。この頃には、入団当初のような線の弱さは感じられず、2002年にはFA権も取得しました。打撃成績も安定し、なおかつ選球眼も抜群で怪我に強い選手とあれば、当然球団としては手放すはずはありません。しかし、当時の広島はBクラスが続く暗黒時代で、市民球団ゆえの財政難も続いていました。結果的に、FA権を行使しての残留を認めない方針をとっており、それまでも数々の有力選手がチームを後にしていました。
FA権を行使し阪神へ移籍すると、2度のリーグ優勝に大きく貢献
金本知憲は広島東洋カープへの愛着も強い選手でしたが、同時に前年阪神タイガースの監督に就任した星野仙一から強烈なラブコールを受けていました。阪神としても、前年は最下位から4位浮上していたとはいえ、チームを根本から変えるためにはどうしても必要な選手でした。そしてついにFA権を行使して、阪神移籍を決断します。
2003年、阪神の3番打者として例年通りのフル出場を果たします。2番に俊足の赤星憲広が入った為、盗塁を助ける協力をするなど制約の多い打順でした。自身の成績は打率.289、19本塁打、77打点と広島4番時代と比べると物足りないものとなりましたが、チームは独走で優勝を飾ります。移籍後、いきなり自身初のリーグ優勝を経験し、日本シリーズでは敗れはしたものの3試合連続含む4本塁打と大暴れしました。
2004年からは不動の4番に座りました。同年は自身初の100打点越えとなる113打点で打点王、翌年は打率.327、40本塁打、125打点と打撃3部門全てでキャリアハイを記録し、再びリーグ優勝しMVPに輝きました。
世界記録となっている1,492試合フルイニング連続試合出場
以降も、阪神のスタメンには4番左翼手・金本知憲の名前が必ずありました。何があっても休まずフルイニング出場する鉄人は、チームの見本となっていきます。2004年には、死球骨折していたにもかかわらず、片手一本でタイムリーすら打つという離れ業もやってのけました。そんなベテラン選手の背中を追う者は当然多くなり、いつしか「アニキ」と呼ばれ慕われるようになっていました。
2008年には、8度目の打率3割をマークし、史上37人目の2000本安打も達成しました。一方で、左膝には故障を抱えており、さらに2010年オープン戦では味方選手と激突して右肩も痛めました。この右肩の故障は、打撃には問題なくとも、守備面で大きく影響が出るようになり、2010年4月自ら申し出てスタメンから外れました。この瞬間連続フルイニング出場記録は途絶えましたが、1,492試合という数字はギネス世界記録に認定されました。
その後は、代打出場などで連続試合出場を続けます。しかし2011年、2死で代打として打席に立った際に、一塁走者が盗塁に失敗したことで、連続試合出場も1,766試合でストップしました。いかに鉄人とはいえ、この時43歳であり当然年齢的な衰えも目立つようになっていました。2012年も開幕から試合に出場して、大学出身者として初の2500安打を達成しましたが、ついに同年限りでの引退を決め、プロ野球人生に別れを告げました。
阪神監督に就任し、超変革野球の元、多くの若手を育成中
3年間の解説者時代を経て、2016年からは阪神の一軍監督に就任します。巨人監督には高橋由伸、横浜DeNA監督にはラミレスと、6球団全員が40代監督という若返りが一気に進みました。そして、1年目はBクラス4位に終わったものの、超変革というスローガンを掲げ、期待の若手選手の起用にこだわり続けました。優勝した広島東洋カープには大きく負け越し、大差のゲーム差となりはしましたが、戦略を維持した事は評価されています。そして彼らが成長した2017年、勝負の2年目を迎えています。