前田智徳について

名前前田智徳(マエダトモノリ)
生年月日1971年6月14日
日本
出身熊本県玉名市
プロフィール岱明中で野球を始める。熊本工2年から甲子園に3回出場。

1989年ドラフト4位で広島入団。1990年6月3日対ヤクルト戦(広島)でスタメン6番で初出場、初打席で初打点をあげる。1991年対ヤクルト開幕戦では初本塁打を先頭打者本塁打で飾る。同年打率.271、本塁打4、打点25でレギュラーの座を獲得。1992年に入り3番の座を確保。1995年5月右アキレス腱を断裂。2000年7月左アキレス腱を手術。2002年に復帰して活躍するとカムバック賞を受賞。2007年には通算2000本安打も達成。2008年以降は勝負強さを買われ、代打の切り札として活躍し、2013年限りで現役引退。2001年元タレントの西岡英美と結婚。

通算成績は2,188試合、7,008打数2,119安打、295本塁打、1,112打点、68盗塁、打率.302。ベストナイン4回、ゴールデングラブ賞4回。熊本工卒、右投左打、176cm、80kg。

熊本工業時代、甲子園に3度出場するも意中球団からの指名は得られず

前田智徳は九州熊本にて生を受け、野球好きだった父の影響で幼少期からボールに触れあっていました。小学生時代にソフトボール、中学時代には野球部に入り早くも天才的なバッティングを披露していました。高校には、川上哲治の母校でもある野球の名門・熊本工業へ進学します。高校生当時からすでに自身に高い技術を求め、ヒットを打っても納得しないという姿を見せていました。高校時代は、3度の甲子園出場を実現しましたが、合計4安打に終わり勝利を挙げたのはわずか1度に終わりました。

抜群の野球センスをもち走攻守と三拍子揃った選手だったため、広島以外11球団のスカウトが挨拶にくるほどでした。中でも熱心だったのは地元九州の福岡ダイエーホークスであり、自然と希望球団になります。しかしドラフト会議が始まると、希望するダイエーからの指名は無く、広島東洋カープから4位指名されました。悔しさで社会人野球へ進むことを考えましたが、広島スカウトの説得、そしてそこまで育ててくれた両親への恩返しの為、返答期限のギリギリで入団を決意しました。

即リーグを代表する外野手となり、まさに順風満帆だった5年間

高卒ルーキーながら、すでに完成されたバッティングセンスをもっていた前田智徳は、1年目から一軍の試合にも出場します。コーチにアドバイスされてもすぐにこなしてしまうという天性の素質は、当時監督の山本浩二に天才と称されるほどでした。そして2年目の1991年には開幕1番スタメンに抜擢されます。すると自身プロ初本塁打を開幕戦先頭打者アーチで飾り、一気にスターダムにのし上がっていきました。

同年は史上最年少で外野手としてのゴールデングラブ賞を受賞し、チームの優勝に貢献します。1992年からはさらにギアを挙げて、同年から3年連続打率3割もマークしました。将来的に3冠王すら期待させる活躍で、3年連続のベストナインに、1991年からゴールデングラブ賞も4年連続受賞とリーグを代表するプレイヤーに成長し、背番号1も背負うようになりました。

選手生命を大きく狂わせることになった両足アキレス腱の怪我

順風満帆だった前田智徳の野球人生は、怪我によって大きく狂わされます。1995年、絶好調のスタートを切りましたが、5月に右足アキレス腱を断裂しその後のシーズンを棒に振りました。翌年から復帰を果たしますが、無意識に右足をかばい微妙な感覚のずれは消えません。その後も、故障離脱を繰り返したため、自身の目標は唯一フル出場に定められました。

それでもだましだましで打席に立ち、1996年から4年連続で打率3割をマークするという相変わらずの天才振りを発揮します。そして2000年には、江藤智のFA移籍で不在となった4番に座り、本塁打を連発していました。しかし、右足をかばうあまり今度は左足アキレス腱を痛めます。その後のシーズンは、手術とリハビリに費やされ、同年に取得したFA権も行使する事はありませんでした。2001年も27試合の出場に留まり、もう復活は難しいとも思われました。

カムバック賞を受賞し、名球会入りを決める2000本安打も達成

ところが不屈の精神で、再びレギュラーとして戻ってきます。2002年は、開幕から出場すると年間を通じて中軸打者として活躍します。3年ぶりに100試合以上となる123試合に出場し打率.308、20本塁打、59打点の成績でカムバック賞を受賞しました。2003年こそ打率3割を逃しましたが、2004年からは再び3年連続打率3割をマークして、その回数を通算11度にまで延ばします。さらに2005年には、自身が目標としていたフル出場を達成し、打率.319、32本塁打、87打点と復活を印象付けました。

そして2007年、史上36人目となる2000本安打も達成して名球会入りを果たします。この時、すでに36歳と野球人生の終焉も見えてきていました。2008年も現役を続けますが、チームの若手育成方針もあって出場は84試合に留まりました。

イチローも憧れた天才は、90年代最高のバッターと称される

バットの芯でボールを捉える技術、そして来るボールをシンプルに打つという天才的なバッティングは、プロ野球界のレジェンドたちから賞賛されました。前述の山本浩二しかり、落合博満らからこぞって天才と呼ばれ、イチローや松井秀喜ら多くの左打者は、前田智徳を手本としていたほどです。

たとえヒットでもホームランでも自分の理想とするバッティングが出来ない場合は、ひどく落ち込み、逆にファウルであってもそれが理想であれば喜ぶというバットマンは、かつての天才・榎本喜八の再来と評されることもありました。怪我さえなければ、首位打者をはじめとするタイトル獲得常連者になっていてもおかしくありませんでした。

抜群の勝負強さを買われ、晩年は代打の切り札として活躍

2008年以降は、100試合出場を実現することができなくなりました。それでも一打にかける勝負強さを買われて、代打の切り札として活躍しました。2012年の代打成績は、打率.327、出塁率.408という素晴らしい数字を残しチームに貢献します。しかし、その最後も現役生活を短くさせた怪我で終わりました。2013年4月に代打で登場した際に、左手首に死球を受けると骨折で戦線離脱します。何とか復帰を目指しましたが、それは叶うことなく引退を決断します。広島東洋カープ一筋で過ごした前田智徳は、一度もFA宣言することなく、24年間の野球生活にピリオドを打ちました。

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