栗山英樹について

名前栗山英樹(クリヤマヒデキ)
生年月日1961年4月26日
日本
出身東京都小平市
プロフィール東京新大学リーグで投手として25勝8敗、打者として通算打率.389をマーク。1984年ドラフト外でヤクルトに入団。1986年メニエール病で入院するが復帰。1989年中堅手レギュラーを獲得してゴールデングラブ賞を受賞。1990年メニエール病の症状がよくならなかったため引退し、テレビ朝日「ニュースステーション」のスポーツリポーターとなる。のちTBS「スポーツ&ニュース」キャスター。

1993年桐朋学園大学短期大学部講師に就任。1998年NHKドラマ「中学生日記」で俳優デビュー。2012年、北海道日本ハムファイターズ監督に就任し、同年リーグ優勝。2016年も自身監督として初の日本一を達成。著書に「夢を追いかけて」。

通算成績は494試合、1,204打数336安打、7本塁打、67打点、23盗塁、打率.279。ゴールデングラブ賞1回、正力松太郎賞1回。創価高等学校、東京学芸大学卒、右投両打、176cm、74kg。

厳格な父に勧められて大学で教員を目指すも野球熱が再燃

栗山英樹は、東京都小平市に生まれると、兄の影響で野球を始めました。また漫画「巨人の星」を彷彿させるような厳格な父に鍛えられていきます。父が監督を務める「富士見スネークス」で徹底的に指導されると、中学時代には中心投手として日米大会に出場するほどに成長します。同大会でMVPを獲得すると、地元・創価高等学校のスカウトに誘われ、同校で甲子園を目指すことになりました。1年生からベンチ入りを果たし、3年にはエースで主将を務めましたが、甲子園行きは実現しませんでした。

父親に「プロよりは指導者を目指せ」とアドバイスされ、教員を目指して東京学芸大学教育学部に進学します。予定通り、小中高の体育教員免許を取得する傍ら、野球を続けました。当初は、投手兼内野手として活躍し、肘を故障してからは野手一本でチームの中心を担いました。4年間で、投手として25勝8敗、打者としてリーグ史上3位の打率.389という好成績を残します。教員への道を意識しながら、プロ野球での活躍という新たな夢ができました。

ドラフト外でヤクルト入団も、レベルの違いと難病に苦しむ

1983年に、ヤクルトスワローズ、西武ライオンズの入団テストを受けます。当時ヤクルト二軍監督をしていた内藤博文は、栗山の才能にほれ込み、球団にかけあってヤクルトへのドラフト外入団が決定しました。

しかし、プロのレベルの高さに驚愕しそのスピードについていけません。さらに2年目の1985年には、メニエール病という難病で平衡感覚が狂い、目まいが頻発するようになってしまいます。大きなハンデを背負いましたが、差を詰めるには猛練習しかないと考え野球に取り組みました。そして俊足を生かすため、新たな試みとしてスイッチヒッターへの転身も図ります。こうした努力が実り、1986年には107試合に出場し、規定打席不足ながら打率.301を残しました。1986年オフには、メニエール病がひどくなり、長期入院をしましたが、翌年以降再び輝き始めます。1998年途中から1番打者に定着すると、規定打席にはわずか届きませんでしたが、高打率.331を記録しました。

レギュラーに定着してゴールデングラブ賞を獲得するも翌年引退

前年の活躍もあって、栗山は開幕から中堅手レギュラーとして起用されました。序盤は1番ないし2番を任されて打率3割を超える活躍を見せます。メニエール病の再発後は、打撃不調となり下位打線になりましたが、自身初めての規定打席をクリアしました。打率.255と大きく数字は落とすものの、俊足で縦横無尽に駆け巡った外野守備では、初のゴールデングラブ賞に輝きました。

しかし栗山が選手として輝いたのは、1989年が最後となりました。メニエール病は一向に回復せず、翌年には練習不足もあってレギュラーを剥奪されます。ハンデを埋めてきた練習すらできなくなったことで、同年29歳にして現役引退を決意しました。

現役引退後はキャスターに転身し、白鴎大学教授にも昇進

現役引退後の栗山は、野球解説者として活躍します。テレビ朝日のニュースステーション、報道ステーションにおいては、長らくの間スポーツキャスターを務めました。一方で、母校東京学芸大学での講師も務め、2004年からは白鴎大学助教授、准教授、教授という職にも就きました。また2009年からは、元プロ野球選手として初めて、高校球児への取材許可を手にし、同年からはテレビ番組「熱闘甲子園」で司会を務め、熱すぎる解説者として人気を集めました。

日本ハム監督として5年で2度の優勝、2016年は初の日本一

引退後、ヤクルト監督候補に名前が挙がった時期もありましたが、2012年から北海道日本ハムファイターズ監督就任が決定します。コーチや二軍監督など指導者経験のなかった栗山の抜擢は異例とも言えました。こうして、国立大学出身かつ大学教授という経歴を持つ唯一のプロ野球監督が誕生しました。

前年の梨田昌孝監督時代、Aクラス2位で終了していたとはいえ、絶対的エース・ダルビッシュ有はポスティングシステムでメジャーリーグ挑戦と、大きな柱を欠いてのスタートとなります。しかし、若い力を信じて起用する大胆な采配を見せていきます。開幕投手には、2年目の斎藤佑樹を抜擢し、4番には荒削りの中田翔を固定しました。また伸び悩んでいた吉川光夫がエース級の活躍を見せ、生え抜き野手たちの活躍もあっていきなりリーグ優勝を飾りました。日本シリーズこそ敗れましたが、いきなりの手腕で世間を驚かせました。

また同年のドラフト会議では、メジャー挑戦を表明していた大谷翔平を単独1位指名します。揺ぎ無いメジャーへの思いに、説得に時間がかかりましたが、二刀流容認や栗山監督みずからの交渉の甲斐あって入団にこぎつけました。ここから、日本の宝といえる大谷を育成しながら日本初の本格二刀流選手として確立させていきます。優勝した翌年にいきなり最下位に転落してしまいましたが、フロントと現場が一体となった育成術で見事にチーム力をあげていきました。

大谷も2年目には11勝と10本塁打、3年目には投手3冠と着実に成長し、2016年は戦力として大いに活躍しました。同年は、常勝チームと化した福岡ソフトバンクホークスが独走しましたが、中盤から猛追します。球団新記録の15連勝など、一時は11.5ゲーム離されていた順位を逆転し、リーグ優勝を成し遂げました。さらに広島東洋カープとの日本シリーズも、2連敗から4連勝で勝利し、監督としては初の日本一を飾りました。


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