元木大介について
名前 | 元木大介(モトキダイスケ) |
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生年月日 | 1971年12月30日 |
国 | 日本 |
出身 | 大阪府豊中市 |
プロフィール | 小学2年からボーイズリーグのジュニアホークスで野球を始める。遊撃手で1番を打ち、春夏全国大会に出場。上宮高校(大阪)では1年秋から4番を打ち、2年の1988年主将に。同年と1989年センバツに連続出場(1988年準優勝)、対市立柏高戦では2本塁打を打つ。夏の甲子園では準々決勝で仙台育英に敗退したが、丸子実業戦で2本塁打を打った。甲子園通算12試合、打率.388、14打点、6本塁打。
同年ダイエーがドラフト1位で指名したが、入団を拒否して野球浪人の道を選び、1990年3月ハワイで自主トレに入る。1991年ドラフト1位で巨人に入団。1991年オープン戦でデビュー、7月ジュニアオールスター戦に出場。1998年初めて規定打席に到達し、打率.297をマークする。2000年バッテリー以外の全ポジションを守るなど“スーパーサブ”としてチームの日本一に貢献。2001年10月FA宣言し、残留。2000年1月元アナウンサーでタレントの大神いずみと結婚。 通算成績は1,205試合、3,397打数891安打、66本塁打、378打点、21盗塁、打率.262。上宮高校卒、右投右打、180cm、83kg。 |
上宮高校時代、甲子園のスターとして歴代2位タイの6本塁打
元木大介は、大阪に生まれ、南海ホークスファンだった父の影響で野球を始めます。自然とホークスファンとなり、小学2年生からは「ジュニアホークス」に入っていました。早くも野球センスを炸裂させて、4年生からはレギュラーを張っていました。しかし6年生当時、当時巨人監督である王貞治に会い、一転して巨人ファンになります。中学に入ると、さらに打力があがり、あまりに打球を飛ばして近所迷惑になることから、「元木ネット」が作られたほどでした。
上宮高校に進学すると、1年生秋から4番を任されます。そして近畿大会でベスト8に入り翌春のセンバツ出場を手にしました。本戦では初本塁打を放つなど、チームのベスト8進出に貢献します。さらに1年後の3年春も甲子園に帰還すると、その名が全国に知れ渡ります。大会史上5人目となる2打席連続本塁打を含む3本塁打放ち、準優勝を飾りました。甲子園のヒーローとしてアイドル的な人気を備え、3年最後の夏も甲子園に出場します。同大会で2本塁打を放ちベスト8で沈みましたが、甲子園通算6本塁打は、桑田真澄に並ぶ歴代2位タイ記録となりました。
ダイエードラフト1位指名を蹴って、1年間の野球留学
超高校級スラッガーとして注目され、自身の意中球団は巨人であることを明言しました。巨人スカウトからの指名約束もありましたが、ドラフト会議が始まると元木大介にとっては想定外の出来事が立て続けにおきます。同年の大注目は、野茂英雄であり当時史上最多の8球団が1位指名で競合しました。そして巨人が1位で指名したのは、元木ではなく大森剛でした。自分が1位指名されると思っていたため呆然自失となります。そしてさほど時間が経過しないまま、続いて野茂の抽選を外した福岡ダイエーホークスが、外れ1位で自身を指名したのでした。
巨人入りを諦めきれず、ダイエーへの入団は正式に断りをいれました。しかし、マスコミからはわがままとバッシングされ、常にカメラに追われる立場となってしまいます。大学や社会人入りして、後の巨人入りに備えるという選択肢もありましたが、マスコミから逃れたいという気持ちも強く、ハワイでの1年間の野球留学を決断しました。
巨人入団後は、スラッガーからユーティリティプレイヤーに転身
ハワイでは充実した練習施設があるわけでもなく、実戦といえば草野球チームに交じるくらいでした。それでも1990年ドラフト会議では、巨人からドラフト1位指名を受けて1年越しでの入団を実現します。留学含めて世話になった両親に契約金を全額プレゼントして、ついに巨人でのプロ野球人生がスタートしました。
しかし、上宮高校時代のスラッガー内野手の面影は消えうせていました。たった一人のハワイ留学で体は一回り大きくなり、あらゆるスピードについていけなくなっていました。2年目から一軍出場をするようになりましたが、レギュラーを獲れる確率は低く、多くの試合に出場する為に複数ポジションをこなすようになります。野球センス自体は抜群だった為、投手と捕手を除く7つのポジション全てが守れるユーティリティプレイヤーに転身していきました。もちろん誰もが認める天性のバッティングセンスは健在でした。常時試合出場はできないまでも、チャンスに強い打者として一軍には欠かせない戦力となっていきます。そうしてチームでの存在感を高め、1998年には開幕スタメンの座を勝ち取り、打率.297(リーグ9位)、9本塁打、55打点とキャリアハイの成績を残しました。特筆すべきは、得点圏打率であり.397は堂々セ・リーグのNo.1でした。その後も、毎年100試合以上に出場し、2001年には2度目の規定打席到達で打率.292(リーグ17位)を記録しました。
くせ者として独特の存在感を放ちオールスターにも2度出場
元木大介は、1993年から再登板した長嶋茂雄監督に重宝されました。いわゆるスーパーサブとして起用され、「くせ者」とも呼ばれるようになります。ゲーム勘に優れており、内野守備時に隠し球を何度もトライしたことも所以しています。隠し球は、実は上宮高校時代にも甲子園の舞台で成功させており、高校生らしくないと物議をかもしたこともあったほどです。
またバットコントロールも抜群で、狙い済ました右打ちやファウル狙いのカットなどはお手の物でした。打席内での読みにも長けており、一転して思い切り引っ張って本塁打することもあったため、相手投手からは嫌がられる存在として一目を置かれていました。レギュラーにはなれませんでしたが、こうした独特な能力もあってオールスターにも2度ファン投票で選出されています。
戦力外通告を受けると、巨人愛を貫き現役引退を決意
2001年にFA権を取得すると、当然のように残留を選択しました。しかし、2003年以降は怪我もあって出場機会が激減しました。チームは若手への切り替え時期でもあり、3年連続で50試合程度の出場に留まります。そして2005年9月、ついに戦力外通告を受けてしまいました。この時点で、33歳とまだ年齢的には若く、勝負強い打撃の持ち主であった為、パ・リーグからは入団の誘いもありました。しかし、浪人してまで憧れの巨人に入団した元木大介は、辞めるときも巨人でと心に誓っていました。現役生活15年を過ごし、一時代を築いた記憶に残る戦手として引退しました。
引退後はタレントや飲食店経営など多方面で活躍中
若くして現役引退した元木大介は、その後様々なチャレンジをしています。野球解説者を務める傍ら、タレント活動も始めると多くのバラエティ番組に出演して人気者になっています。引退5年後には、念願だったラーメン店経営にも着手し、一時は3店舗まで拡大させていました。また2012年のジャイアンツファンフェスタに参加すると、長野久義に自らの代名詞でもあった隠し球でアウトにされるという大チョンボを犯し、ファンの笑いを誘いました。