西岡剛について

名前西岡剛(ニシオカツヨシ)
生年月日1984年7月27日
日本
出身大阪府大東市
プロフィール少年時代を奈良県で過ごし、小学2年から本格的に野球を始める。中学時代には「郡山シニア」で全国大会に出場。かねてからPL学園入りを目指していたがセレクションに落選し、大阪桐蔭に進学。3年夏には甲子園に出場。

2002年ドラフト1位で千葉ロッテマリーンズに入団。スイッチヒッターに転向すると、3年目に頭角を現し盗塁王を獲得。2006年には第1回WBCにもレギュラーとして出場し、日本の優勝に貢献。2006年から2年連続で打率3割を達成。主将に就任した2010年、パ・リーグ2人目となるシーズン200安打を達成し、首位打者と最多安打のタイトルを獲得。チームもシーズン3位からの日本一を達成。

同年オフにポスティングシステムを行使し、ツインズに移籍。開幕スタメンの座を掴むも、早々に怪我で戦線離脱すると1年目は68試合のみの出場と不本意な成績に終わる。さらに2年目も相次ぐ怪我もあり3試合の出場に留まると、以降の契約を破棄して日本球界に復帰。阪神と契約し、2013年には1番二塁手として定着し、ベストナインを獲得。しかし、2014年以降毎年のように怪我で戦線離脱状態が続いている。著書に「全力疾走」宝島社。

NPB時代の通算成績は1,068試合、4,008打数1,165安打、61本塁打、377打点、193盗塁、打率.291(2016年まで)。首位打者1回、最多安打1回、盗塁王2回、ベストナイン4回、ゴールデングラブ賞3回。

MLB時代の通算成績は71試合、233打数50安打、0本塁打、20打点、2盗塁、打率.215(2016年まで)。大阪桐蔭高校卒、右投両打、182cm、78kg。

打倒PL学園を誓った大阪桐蔭時代に大きく頭角を現す

西岡剛は、生まれは大阪でしたが、少年時代は奈良県で過ごしました。5つ上の兄の影響を受けて、幼稚園の頃から自身も野球を始めます。小学2年生時に、軟式野球からリトルリーグに移り、早くも硬球を握りました。そして当時からプロ野球選手を夢に定め、そのためにも大阪のPL学園に入学することを目標にしていました。中学時代に「郡山シニア」で全国大会に出場するなど順調に実力をつけていきましたが、PLのセレクションに落選します。そして、大阪桐蔭高校に進学しました。

大阪桐蔭は、1991年夏に初出場初優勝を飾っていましたが、以降一度も甲子園出場をしていませんでした。しかし西岡が主将で4番を務めた2002年、2度目の出場を果たします。東邦高校(愛知)との初戦、自身は2安打を放つも3-5と敗れ全国の舞台では暴れることが出来ませんでした。

ドラフト1位でロッテに入団すると、3年目からレギュラー定着

高校通算42本塁打とパンチ力もあり、走行守三拍子揃った西岡剛は、高校屈指の内野手として大きく注目されます。そして2002年のドラフト会議で、千葉ロッテマリーンズからドラフト1巡目指名という高い評価を得て入団しました。1年目は7試合の出場に終わりましたが、2年目にスイッチヒッター転向すると、早くも頭角を現します。63試合出場と多くの試合を経験し、飛躍の3年目を迎えました。

開幕スタメンこそ逃しましたが、1番もしくは2番としてレギュラーに定着します。打率こそ.268と低調でしたが、抜群の走塁センスで41盗塁、パ・リーグ最年少盗塁王に輝きました。さらに二塁手としての安定した守備力も評価されて、ゴールデングラブ賞にベストナインとロッテの主力へと成長します。さらに同年シーズン順位は2位でしたが、クライマックスシリーズ、そして日本シリーズも勝ち抜き、31年ぶり3度目の日本一を経験する最高のシーズンを送りました。

翌2006年は、若干21歳にして第1回WBC日本代表に選出され、全8試合に出場します。2番二塁手としてスタメンに名を連ねて、打率.355、2本塁打8打点、5盗塁という成績を残し、日本の優勝に貢献しました。同シーズンではほぼ1番打者として定着し、33盗塁で2年連続盗塁王にも輝きました。

主将としてシーズン200安打も達成し、ロッテの日本一に貢献

ロッテの顔となった西岡剛は、2007年から2年連続で自身初めての打率3割を達成します。しかし、怪我の影響からか盗塁数は年々減少していました。それでも2008年には、北京五輪にも日本代表として出場し打率.455、10安打、1本塁打、4打点、2盗塁と好成績を残しました。しかしこの頃から故障が目立つようになり、第2回WBCの召集は見送られます。同シーズンも盗塁数は前年を上回りましたが、打率は大きく下げていました。

2010年から、里崎智也に代わってチームのキャプテンに就任すると、前年までの不調を吹き飛ばす活躍をみせていきます。開幕から安打を量産し、5月は打率4割オーバーで月間MVPを獲得、また9月にはイチローの持っていたシーズン猛打賞記録を27回で更新しました。安打製造機ぶりは終盤まで続き、パ・リーグ史上2人目となる、シーズン200安打を達成します。スイッチヒッターとしても内野手としても初の快挙となり、打率.346で初の首位打者ならびに最多安打のタイトルを獲得しました。同年は、怪我も克服して144試合フルイニング出場も達成して背中でナインを牽引しました。チームはシーズン3位で終わりましたが、クライマックスシリーズ、そして日本シリーズも制し、史上最大の下克上と呼ばれた番狂わせを起こしました。

夢のメジャーリーグ挑戦も、度重なる怪我で爪あとを残せず

自身が活躍しての日本一を達成したことで、西岡剛は新たな挑戦に向かって前進します。それは、子供の頃からの夢だったメジャーリーグでした。FA権を持たない西岡は、ポスティングシステムを行使して、ミネソタ・ツインズとの3年契約を締結しました。

キャンプで成績を残し、開幕戦には二塁手スタメンとしてメジャーデビューを果たしました。しかしそこからわずか6日後に、守備中に選手と交錯して骨折を負ってしまいます。約2ヵ月後に復帰しましたが、攻守に精彩を欠き、メジャー挑戦1年目は68試合、打率.226、2盗塁という不本意な成績で終わりました。翌年も怪我を負ったことで、マイナー生活を余儀なくされます。結局同年のメジャーでの出場はわずか3試合に終わり、残り1年の契約を破棄して自由契約となりました。

阪神で日本復帰するも、2014年以降は相次ぐ大怪我が続く

メジャーでは実績を残せませんでしたが、まだ20代と若い西岡剛は、日本球界に復帰して阪神タイガースと2年契約を結びます。2013年、二塁手レギュラーを奪い、かつてのリードオフマンぶりを復活させました。同年に通算1000本安打を達成するなど、リーグ7位の打率.290の成績を残し、チームに貢献します。二塁手としては初のベストナインにも選出され、ロッテ時代とあわせて両リーグベストナイン受賞も達成しました。

最高のリスタートを切った西岡でしたが、2014年からは苦難の日々が続きます。2014年は、開幕第3戦の守備時、味方選手と激突して大怪我を負ってしまいます。東京ドーム内に救急車が乗り入れての搬送となり、復帰には2ヵ月半を要しました。その後も影響は隠せず、24試合のみの出場に留まります。離脱している間に二塁手レギュラー剥奪となるも、2015年は三塁手として開幕スタメンに名を連ねました。しかし不運は続き、5月に右肘を故障するとまたしても長期離脱を繰り返しました。転んでも何度も立ち上がる西岡は、2016年シーズン前のキャンプで、二塁手のレギュラーを奪い返しました。万全ではない状態ながらも、何とか試合出場を続けていましたが、今度は選手生命すら奪いかねない怪我を負ってしまいます。7月の試合で、タイムリーを放ちましたが、一塁へ駆け抜けるときに左アキレス腱を断裂しました。この一瞬で年内復帰は絶望的となり、2017年シーズンの開幕一軍メンバーにも姿をみせていません。


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