内海哲也について

名前内海哲也(ウツミテツヤ)
生年月日1982年4月29日
日本
出身京都府京田辺市
プロフィール小学2年の時から久世フレンズで野球を始める。中学では京都田辺ボーイズに所属し、3年生の時春の全国大会でベスト8に進出。福井県の敦賀気比高に進学し、1999年秋の県大会、北信越大会では圧勝で優勝。2000年センバツにも選ばれていたが、不祥事で出場できなかった。同年ドラフトでオリックスから1位指名されるが、入団を拒否。2001年社会人野球の東京ガス入り。140キロ台の速球とカーブが武器。

2003年自由獲得枠で念願の巨人入り。3年目からローテーションの柱として定着し、2006年から3年連続二桁勝利、2007年には初の開幕投手を務める。2011年からは2年連続で最多勝のタイトル獲得ならびに防御率1点台をクリアし名実共に巨人のエースとなる。2012年は日本シリーズでも2勝を挙げてMVP獲得。2010年から4年連続で二桁勝利をマークするも、2014年から一桁勝利と不調に陥っている。

NPB時代の通算成績は297試合、126勝89敗2ホールド、防御率3.09、1,829回0/3、1,409奪三振(2016年まで)。最多勝2回、最多奪三振1回、最優秀投手1回、ベストナイン1回。敦賀気比高等学校卒、東京ガス出身、左投左打、186cm、95kg。

高校時代、北陸のドクターKの異名をとるも甲子園には届かず

京都府で生まれた内海哲也は、祖父が元プロ野球選手・内海五十雄でもあり幼少期から野球に興味を抱きました。そして小学2年生から本格的に野球を始めます。中学時代こそ3番手投手でしたが、敦賀気比高等学校に進学すると一気に注目されます。高校2年に球速がアップしエースとなり、強力打線も後押しして2年秋の福井大会、そして北信越大会を圧倒的強さで優勝しました。さらに続く明治神宮野球大会では内海が不調にもかかわらず準優勝を成し遂げます。そして敦賀気比として初の甲子園出場が決定し、優勝候補の一角にあげられました。

しかし主力選手の不祥事というまさかの事態が発覚し、出場辞退を余儀なくされ、甲子園出場は泡と消えます。残された機会は高校3年夏のみとなり、すでに北陸のドクターKの異名をとっていた内海は何とか福井県大会決勝まで進みます。念願の甲子園をかけた戦いは延長戦にもつれ込む熱戦となりましたが、福井県立福井商業高等学校に破れ、結局聖地の土を踏む事はできませんでした。それでも、切れ味鋭いカーブを持ち驚異の奪三振率を誇る内海は、プロから注目されました。ただ自身の希望は祖父の所属していた巨人一本であり、巨人以外からの指名は拒否すると明言していました。

オリックスの1位指名を拒否して、東京ガスで社会人野球へ進む

2000年ドラフト会議で、オリックス・ブルーウェーブがドラフト1位で内海哲也を指名しました。仰木彬監督からの直接のアプローチに一時気持ちが揺らぎましたが、やはり意中の巨人指名ではなかった為、指名拒否の姿勢を貫きます。そして将来の巨人指名を待つ為、東京ガスへ進みました。

ここでも、内海は投手として経験を積みました。後にチームメイトとなる片岡治大ともプレーし、2003年には都市対抗野球大会では補強選手として抜擢されます。しかも、そのチームは野村克也氏がGMを務めていたシダックスであり、同じくチームメイトになる野間口貴彦がエースとして準優勝も経験しました。東京ガスで3年間を過ごし、香月良太・森大輔とともに「三羽ガラス」と呼ばれ、2003年のドラフト会議を迎えました。

念願の巨人に入団すると、4年目には開幕投手に抜擢

2003年当時は、自由獲得枠が存在し自由に希望する球団を宣言できました。そして3年越しの夢をかなえて、内海哲也は巨人入りを果たします。背番号も、祖父がかつて巨人時代に付けていた26番に決定し、プロ人生をスタートさせました。ルーキーイヤーは、主に二軍で調整し、最優秀防御率を獲得します。2年目の2005年は、堀内恒夫監督に抜擢されて一軍で先発として登板機会が与えられます。4勝9敗と数字的には不本意でしたが、貴重な敬家印を積みました。

2006年からは毎年先発ローテーション投手としてチームに貢献していきます。同年初の二桁勝利を達成すると、2007年には初の開幕投手に抜擢されて14勝7敗と活躍し、180奪三振で最多奪三振のタイトルを奪いました。同年から3年連続二桁勝利と、チームの軸として活躍します。2009年には9勝止まりとなり連続二桁勝利は途切れましたが、同年の日本シリーズでは、日本一を決めた第6戦で、緊急リリーフして勝利投手となりました。

絶頂期は、2年連続最多勝に日本シリーズMVPも獲得

2010年に選手会長に就任、そして2度目の開幕投手を任されると、再び二桁勝利をマークします。さらに2011年からは、統一球導入の影響があったとはいえ、内海哲也は驚きの数字を残しました。序盤から好調を維持し、交流戦でも優秀選手賞を受賞します。キャリアハイの勝利数を更新し、最多勝タイを狙った最終戦でも逆転サヨナラ勝利で勝ち星を積み上げます。同年は、18勝5敗で初の最多勝を獲得、そして防御率はタイトルこそ逃しましたが、驚異の1.70でした。

2012年、2年ぶり3度目の開幕投手を任されると、前年に続いて交流戦で輝きを放ちます。4勝無敗と負け知らずで、巨人の交流戦初優勝に貢献するMVPを獲得しました。その後も、エースとして負けない投球を続け、15勝6敗で2年連続最多勝、ならびに防御率も2年連続で1点台と素晴らしい成績でリーグ優勝に貢献しました。同年の集大成は日本シリーズでした。第1戦、第5戦に先発した内海は、2勝0敗、防御率1.20の成績で、チームの日本一に貢献し、MVPを獲得しました。シーズンMVPを獲得した阿部慎之助とともに、まぎれもなく巨人の中心的存在となりました。

球界屈指のクイックモーションを持つエースは投手陣のリーダー

2016年までに内海哲也は通算126勝をマークしていますが、150キロを超える剛速球や、絶対的なウィニングショットである変化球を持っているわけではありません。あくまでもストレート主体で、多くの変化球を組み合わせるコンビネーションで打者を牛耳っています。特にクイックモーションには優れており、盗塁を許すことが限りなく低い投手です。

またチームリーダーとしての役割も大いに果たしています。FAなど移籍者が多い巨人の中で、いち早くチームに溶け込めるような橋渡しを毎年のように務めています。また毎年恒例の自主トレには、内海を慕い、多くの若手が共にしています。エースであり、投手陣のリーダーとして常勝軍団を支えています。

2017年、4年ぶりの二桁勝利を目指して完全復活を目指す

2010年から4年連続で二桁勝利をあげましたが、2014年以降は一桁勝利に終わっています。2016年は後半に巻き返して、9勝をマークしましたがエースの座は、菅野智之に譲っています。完全復活を期す2017年シーズンは、前年の人間ドッグで右胸骨の内側に腫瘍が見つかり手術を受けてというマイナスからスタートとなりました。しかし、2000年に入っての巨人の2度にわたる3連覇は、内海哲也がいなければ実現していませんし、まだ34歳で迎える2017年シーズンに復活を期待するファンは決して少なくありません。

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