中畑清について

名前中畑清(ナカハタキヨシ)
生年月日1954年1月6日
日本
出身福島県
プロフィール福島県の私立安積商から駒沢大学へ進学、東都大学リーグで大型三塁手、強打者として活躍。

1976年“駒沢トリオ”の一人として巨人に入団。ファーム暮らしを経て、三塁定位置を獲得するが、原の入団により一塁手に転向した。実力もさることながら、“絶好調節”を唱える快活な性格と人柄の良さで選手間の人望を集め、1985年7月プロ野球選手会会長に就任。同会の労組化にともない、野球選手の労働条件の改善をめざして奮闘した。

1989年シーズン終了後引退し、解説者に。1992年長島茂雄の監督復帰とともに打撃コーチとして巨人に戻る、1994年退任。

日本テレビ系列のプロ野球中継・ニュースの解説等で活躍。2004年アテネ五輪では長嶋監督のもとヘッドコーチに就任。その後倒れた長嶋に代わって監督を務めるも銅メダルに終わる。2012年からは新生横浜DeNAベイスターズの初代監督に就任。4年間すべてBクラスに終わるものの、観客動員数の大幅増加、さらには筒香嘉智を4番打者として育成するなどチームの基礎作りに尽力した。

通算成績は1,248試合、4,458打数1,294安打、171本塁打、621打点、70盗塁、打率.290。ゴールデングラブ賞7回。駒沢大学卒、右投右打、180cm、76kg。

駒澤三羽ガラスとして名を馳せ、ドラフト3位指名で巨人入団

中畑清は9人兄弟の8番目として福島県に生まれ、長嶋茂雄に憧れて野球を始めました。地元の安積商業高校に進学し、長嶋と同じ三塁手や遊撃手を務め、甲子園を目指しましたが夢は叶いませんでした。駒澤大学に進学すると打者としての才能が開花し、2年には首位打者争いを演じるほどになります。また直射日光を避けるためのサングラスに、一本足打法などでも注目を浴び、大学時代は通算で4度もベストナインに輝きました。

同僚の平田薫、二宮至とともに駒澤三羽ガラスと称され、1975年ドラフト会議注目の一人となります。憧れの巨人1位指名は、高校生の篠塚利夫でしたが、中畑も同3位で指名されました。北海道拓殖銀行の内定が決まっていましたが、指名漏れした平田、二宮も巨人でプレーできるのならという条件で、長嶋が監督を務める巨人入団が決まりました。

長嶋茂雄に憧れて巨人入団、日米野球でチャンスを掴む

ようやくプロのスタートラインにたった中畑清でしたが、プロは甘い世界ではありませんでした。2年目にイースタンリーグで打点王に輝きますが、一軍出場は3年間でわずか12試合に留まります。当時、V9が途絶えていたとはいえ、王貞治をはじめとしてそのV9を支えた土井正三、高田繁らベテラン内野手は健在でした。ところが、3年目オフの日米野球が、中畑にとっての転機となります。シンシナティ・レッズとの第1戦で途中出場すると、リリーフエースだったマリオ・ソトから2点本塁打を放ちました。レッズ監督に、強烈に印象を残し長嶋監督への進言もあって4年目から一軍に定着することになりました。

さらにその1979年は、正三塁手だった高田が怪我で離脱すると、6月から代役レギュラーとしてスタメンに抜擢されます。そして攻守で成績を残したことで、高田が復帰しても三塁手のポジションを譲りませんでした。1980年には、初めて規定打席に到達して、打率.268、22本塁打、57打点と完全に三塁手レギュラーを掴みました。

怪我でポジションを掴んだ中畑でしたが、1981年、同じく自身の怪我で三塁手のレギュラーを奪われます。前年に、長嶋が監督を辞任し、王が現役引退しましたが、入れ替わるようにスター選手・原辰徳が入団します。当初は、原を二塁手にコンバートさせて、中畑が三塁手を務めていましたが、同年途中に怪我で戦線離脱しました。当時の藤田元司監督は、三塁手に原を、そして二塁手には篠塚利夫を起用して難を逃れます。しかし二人が好成績をマークした為、中畑が復帰後もこの形を崩すことはできません。結果的に中畑は一塁手として固定されると、この形が巨人の内野陣レギュラーとなりました。同年の中畑は、キャリアハイの打率.322、16本塁打、66打点と活躍し、巨人は1973年以来の日本一を奪還しました。

絶好調男を自ら名乗り、ムードメーカーとして長年巨人を支える

その後の中畑清は、原と共に巨人の中軸を長年担い、一塁手としても1982年から7年連続でゴールデングラブ賞を受賞するなどチームに不可欠の存在となりました。1984年には生涯唯一のフル出場を達成して、キャリアハイの31本塁打、83打点と活躍します。1987年には、一時首位打者争いの中心でもありました。

ただ中畑は数字以上に、ムードメーカーとして唯一無二の存在になっていました。入団当初コーチに言われた一言をきっかけに、常に絶好調宣言しその明るい性格とパフォーマンスでナインを鼓舞します。絶好調男やヤッターマンなど多くの呼び名でファンから愛されました。

シーズン、日本シリーズとも最終試合で惜別の代打本塁打

1989年怪我で戦線離脱した際、一塁手に駒田徳広が定着したこともあって、中畑清は同年限りでの引退を早々に表明します。しかし、そこからの短い間で、ファンの心に残る安打を何度も放ちました。同年、2年ぶりにリーグ優勝を決めた試合では、代打として登場し2ベースを放ってヘッドスライディングでファンを沸かせます。この時、球場では日本で初めてといわれているウェーブが巻き起こりました。さらにペナントレース最後の試合でも、代打で登場すると、有終の美を飾る本塁打を放ちます。千両役者張りの活躍ですが、さらに続きがありました。

同年、近鉄バファローズとの日本シリーズ、巨人はまさかの3連敗で崖っぷちに追い込まれます。しかしそこから奇跡の3連勝でタイに戻すと、第7戦も打線が爆発して6-2とリードします。そしてこの試合で同僚の篠塚は、中畑の代打を藤田監督に直訴していました。リードしていたとはいえ、まだ6回で4点差という局面において、それが実現します。しかも、勢いのあった吉村禎章への代打で登場すると、近鉄リリーフエースだった吉井理人から本塁打を放ち、日本一と自らの引退に花を添えました。

日本プロ野球選手会の立ち上げに尽力し、初代会長も歴任

中畑清はプレー以外でも球界に足跡を残しています。現在では当たり前のように存在する日本プロ野球選手会ですが、個人事業主揃いのプロ野球選手において労働組合として組織化させ、初代会長を務めた中畑の功績は非常に大きいとされています。2004年にプロ野球再編問題が勃発し、5代目会長・古田敦也を中心にストライキなどがあった事は記憶に新しいです。しかし、そもそも選手会が存在しなければ、2リーグ制存続も実現していなかったかもしれず、その功績は改めて称えられています。

アテネ五輪では長嶋監督の代理監督を務め銅メダル

現役引退後は、長嶋茂雄が巨人監督に復帰する際に、打撃コーチに就任します。しかし、打撃陣が一転して12球団ワーストに終わるなど、コーチとしてはあまり貢献できず、もっぱら現役時代同様にムードメーカーを務めました。わずか2年で再びユニフォームを脱ぎましたが、2004年アテネ五輪野球日本代表チーム結成時には、再び長嶋監督の下、ヘッドコーチに就任します。長嶋監督が病床に伏してからは監督代行を務めましたが、念願の金メダル獲得はならず銅メダルに終わりました。

横浜DeNA初代監督としてチームの土台を築き上げる

しばらくユニフォームから遠ざかった中畑清は、意外な形で球界復帰します。2012年シーズンから、買収で新たなチームとなった横浜DeNAベイスターズの初代監督に抜擢されました。チームは、1998年を最後に優勝から遠ざかり、監督を引き受けた時点で4年連続最下位という超低迷期にいました。初年度も、セ・リーグ全球団に負け越すなど最下位を5年連続に伸ばしましたが、明るい性格は現役時代そのままで観客動員はV字回復を見せはじめます。

就任3年目以降は、4番にすえ続けた筒香嘉智がついに才能を開花させます。さらに4年目には、クローザーの山口俊を先発にコンバート、ルーキー山崎康晃をクローザーに抜擢するなど大胆な選手起用が冴えて、17年ぶりの前半戦首位ターンも経験しました。しかしまだ本物の実力が身についていなかったこともあって、2015年も最下位に終わり責任を取って辞任します。しかし、確かな観客動員増、そして2016年には自身が育てた選手たちが活躍して初のクライマックスシリーズ進出など、成果は確実に現われています。


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