名前二岡智宏(ニオカトモヒロ)
生年月日1976年4月29日
日本
出身広島県三次市
プロフィール十日市中から広陵高に進み、1年夏からレギュラーとなり、投手兼三塁手として活躍。近畿大学に進学後、遊撃手に転向し、1年の春からレギュラーに。関西学生リーグ7季連続ベストナインを獲得。2年の秋には首位打者に輝く。1997年アジア選手権で日本代表入りし、同年のインターコンチネンタル杯では最優秀守備賞を獲得、走攻守そろった大型内野手として注目を集める。

1999年ドラフト2位で巨人に入団。持ち前のパンチ力と強肩で開幕直後からレギュラーに定着し、打率.289、18本塁打、51打点を記録。2002年には24本塁打と長打力を披露し、日本シリーズでもMVPを獲得。その後怪我に苦しみながらも、20本塁打以上を4シーズン経験。2008年選手会長に就任するも開幕戦で怪我をすると、坂本勇人にレギュラーを奪われる。

同年オフ、日本ハムへトレード移籍。怪我は完治せず、指名打者や代打としての出場が多くなるも、2009年、2012年のリーグ優勝に貢献し、2013年現役引退。洗練されたルックスとセンスで女性ファンが多い2016年巨人二軍打撃コーチ、2017年同一軍コーチに就任。

通算成績は1,457試合、4,666打数1,314安打、173本塁打、622打点、48盗塁、打率.282。ベストナイン1回。近畿大学卒、右投右打、180センチ、77キロ

広陵高校、近畿大学で屈指の打者となり、逆指名して巨人に入団

二岡智宏は、広島県で生まれ、兄・聡の影響で幼少期から野球を始めます。小学生時代から、福原忍とは同窓で、中学時代までは二岡がチームのエースを務めていました。そしてその中学時代の1991年春、兄は広陵高校野球部の一員として甲子園で全国優勝を成し遂げます。その兄に続きたく、福原とともに同じ広陵へ進学しました。福原が投手として大きく頭角を現し二岡との投手2枚看板を形成します。2年の秋季大会では、自身の応援に来る途中に交通事故で父を亡くすという不運にあいました。悲しみを胸に最後の夏で甲子園出場を目指しましたが、新井貴浩率いる広島工業に敗れ夢は叶いませんでした。

すでにプロスカウトの注目を浴びていましたが、近畿大学へ進学しました。実力は抜きん出ており1年生からレギュラーを奪うと、歴代1位の通算13本塁打、同2位の114安打など関西学生リーグ屈指の打者へと成長していきます。7期連続ベストナインを奪い、チームとしても1997年は春秋両リーグ戦に大学選手権、神宮大会、アマチュア王座決定戦など5冠達成という快挙を成し遂げました。

大学日本代表にも選出された二岡は、高卒時以上にドラフト注目の的となります。地元広島、阪神、巨人の3つ巴の争奪戦となり、最終的には巨人を逆指名(ドラフト2位)して入団しました。

新人王こそ逃したものの、川相昌弘から遊撃手レギュラーを奪う

当時巨人の遊撃手レギュラーは川相昌弘が務めていましたが、すでに34歳とベテランの域に達しており、世代交代を迫られていました。しかし、新人の二岡智宏はその課題をいとも簡単に解決します。開幕スタメンこそ実現できませんでしたが、2試合目には早くも遊撃手スタメンを勝ち取ります。7番打者ながら長打力を発揮すると、レギュラーに定着しシーズン終了間際には打順を上げてすらいました。

同年は126試合に出場して、打率.289、18本塁打、51打点と素晴らしい成績を残し、サヨナラ本塁打も2本放ちます。通常の年であれば、新人王間違いなしという数字でしたが、同期でドラフト1位入団の上原浩治の成績は群を抜いていました。最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率の投手4冠に加え、沢村賞も手にした上原には叶わず、二岡は新人王受賞を逃しました。

長打の打てる大型遊撃手として、長年レギュラーに君臨

その後しばらくの間、二岡智宏は巨人の遊撃手の座を誰にも渡しませんでした。ゴールデングラブ賞には縁がありませんでしたが、それを補って余りある打撃力を披露し大型内野手として君臨します。

プロ2年目の2000年は、故障により規定打席未到達でしたが、優勝決定を決める試合で見せた右中間へのサヨナラアーチは芸術的でした。2002年は、攻撃的2番として定着し、巨人遊撃手としては初となる20本塁打をクリアする24本塁打、67打点と攻撃陣を牽引します。同年の日本シリーズでは、史上初の3戦連続猛打賞を含む19打数9安打で打率.474、5打点と4連勝の立役者となり、シリーズMVPに輝きました。

2003年には初物尽くしを経験します。140試合フル出場で、打率.300にキャリアハイの29本塁打を記録し、ベストナインに選出されました。また2006年には、1試合に2本の満塁本塁打を放ち、10打点を記録するという離れ業も演じます。シーズン20本塁打も4度記録するなど、まさに替えがきかない大型遊撃手として君臨し、オールスターにも5度出場しました。

坂本勇人に遊撃手レギュラーを奪われ、日本ハムへトレード移籍

節目となる10年目の2008年、高橋由伸に代わり第15代目巨人軍選手会長に就任します。しかし開幕戦で肉離れを起こし長期離脱すると、その間に坂本勇人に遊撃手レギュラーの座を明け渡しました。復帰後も、坂本からポジションを奪えず三塁手へ転向を余儀なくされます。しかし同年再びの怪我で31試合出場に留まると、オフには日本へハムファイターズへのトレードを言い渡されました。

足の故障は移籍後も尾を引き、一度も規定打席到達することはありませんでした。それでも勝負強い打撃力は健在で、指名打者や代打で存在感を示します。交流戦において巨人からも本塁打を記録し、12球団すべてからの本塁打を記録しました。また相変わらず人気も高く、2009-2010年と2年連続でオールスター出場を果たします。日本ハム5年間でレギュラーを奪取することはありませんでしたが、いぶし銀で2度のリーグ優勝に貢献し、2013年オフに戦力外通告を受けて引退しました。

現役引退後は、古巣巨人に復帰し、打撃コーチに就任

引退後は野球解説者を務める傍ら、古巣巨人と契約して国際スカウトの支援を続けました。2016年からは二軍打撃コーチ、2017年からは一軍打撃コーチとして、再び巨人ユニフォームに袖を通しています。同じ右打者ながら伸び悩んでいる岡本和真への指導などに精を出しています。

巨人時代の2003年オフ以降、「二岡ボックス」を設置し、自身と同様に交通事故で親を失った子供たちを招待していました。ゲームの入場券のみならず、自宅からの交通費などすべての経費もすべて負担するという内容です。当時、自動車事故対策機構からも感謝状が贈られました。

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