名前田淵幸一(タブチコウイチ)
生年月日1946年9月24日
日本
出身東京都
プロフィール法政大学では通算22本の東京六大学最多本塁打記録(当時)を樹立。

1969年ドラフト1位で阪神に捕手として入団。新人王、本塁打王1回、ベストナイン5回と阪神の看板選手となるが、1979年西武へ移籍し、一塁手兼指名打者に転向。八田有加との結婚などで話題をまく。1982年は大いに活躍、西武優勝に貢献した。1983年正力松太郎賞受賞。

1984年のシーズン終了後引退し、解説者に。1989年ダイエーホークス監督に就任。1992年退任。1993年TBS解説者に復帰。「関口宏のサンデーモーニング」に出演するなど、タレントとしても活躍。2002年阪神コーチに就任(~2003年)。2008年北京五輪日本代表コーチ。2011年楽天コーチに就任(~2012年)。

通算成績は1,739試合、5,881打数1,532安打、474本塁打、1,135打点、18盗塁、打率.260。本塁打王1回、新人王、ベストナイン5回、ダイヤモンドグラブ賞2回、正力松太郎賞(第7回)。法政大学卒、右投右打、186cm、90kg

東京六大学本塁打新記録を樹立し、ドラフトではまさかの阪神1位指名

田淵幸一は、1946年東京の裕福な家に生まれます。幼少の頃から巨人ファンで、中学時代から本格的に野球を始めました。法政一高時代に捕手に定着し、4番打者として甲子園を目指しましたが、縁がありませんでした。法政大学に進学すると、スラッガーとしての素質が一気に花開きます。入学早々、エリートしか入れない寮に1年生として唯一抜擢されました。その後、山本浩二・富田勝とともに法政三羽ガラスと異名をとりましたが、田淵は別格の活躍を見せます。それまでの東京六大学本塁打記録は長嶋茂雄の8本塁打でしたが、1シーズン6本塁打や3試合連続本塁打などで、通算22本と軽々と新記録を樹立しました(後に高橋由伸が23本で更新)。

卒業時の1968年ドラフト会議では、当然のように異常な人気となります。在京セ・リーグ球団、中でも巨人を熱望していましたが、当初手を上げていなかった阪神タイガースが1位指名して世間は騒然としました。当初は入団に難色を示し、裏で巨人との三角トレードも噂される中、最終的にそのまま阪神へ入団が決まりました。

ルーキーイヤー、終盤に怒涛の追い上げを見せ22本塁打で新人王

オープン戦でも球場が満員となるほど、田淵幸一の人気は絶大でした。しかし、内角球の弱点が早くも知れ渡り、第1号を放つのに60打席も費やしました。捕手としての能力も疑問視され、村山実や江夏豊という新旧エースからも太鼓判を押されません。開幕戦スタメンマスクは見送られ、プロ初打席は開幕戦の代打で迎えます。さらに大洋のエース・平松政次の前に三球三振で一度もバットを振ることすらできませんでした。

しかし、続く開幕3試合目に初先発すると、圧巻の2打席連続本塁打を披露して世間の度肝を抜きます。その後、相手の内角攻めに苦しみましたが、終盤残り15試合で7本塁打して、開幕前目標にしていた背番号と同じ22本塁打を放ちました。打率は.226と低い成績でしたが、星野仙一、山本浩二に大きく差をつけて新人王を受賞しました。

捕手としてたゆまぬ努力を続け、江夏とは黄金バッテリーと呼ばれるように成長しますが、2年目の8月、選手生命を脅かす出来事が起こります。広島のエース外木場義郎から左こめかみに死球を食らい、4日間意識不明の重体となりました。意識は何とか回復するも全治3ヶ月の診断を受けて、残り試合は棒に振ります。さらに、この件がきっかけとなって耳あて付ヘルメットの着用が義務付けられました。翌年、80試合に出場しましたほぼ外野手としての出場でした。

王貞治の連続本塁打王記録を13年でストップさせる初タイトル

入団4年目以降、田淵幸一はホームランアーチストの道を歩み始めます。王貞治のバッティングからヒントを掴み、スピンをかけてボールを上げる打法を編み出しました。1972年、初めて30本塁打をクリアする34本塁打(リーグ2位)を放ちます。そして翌1973年は、5月の巨人3連戦で7打数連続本塁打を記録するなど、特に巨人戦において真価を発揮しました。さらに優勝争い終盤の直接対決では、自身の逆転満塁本塁打で首位に立ちます。残り2戦のうち1勝で優勝という局面までたどりつきましたが優勝を逃し、巨人V9を目の前で決められました。田淵は同年37本中16本を巨人戦で放ちましたが、本塁打王争いは2年連続2位でした。

前年の悔しさを胸に、開幕から本塁打を量産し最終的にはキャリアハイの45本にまで伸ばしました。それでも、2年連続3冠王の王に破れ3年連続2位に甘んじます。しかし、長嶋茂雄が引退して不在となった1975年、王にマークが集中し打撃不振に陥りました。同年、田淵は43本塁打を放ち、ついに王の連続本塁打王記録を13年で阻止します。この年は、田淵がシーズン打率3割を越えた唯一の年でもありました。

まさかの電撃トレードで、新生・西武ライオンズへの移籍が決まる

その後も39本(1976年)、38本(1978年)と本塁打を量産していましたが、1978年オフまさかの事態が起こります。阪神は、2リーグ制以降初となる最下位に転落し、球団社長や監督などが一層されました。そして、怪我が多かった田淵幸一は、新監督ドン・ブレイザー構想からはずれトレード候補となります。

クラウンライターライオンズから生まれ変わった西武ライオンズとの2対4の大型トレードが決定しましたが、田淵本人にそれが通達されたのは深夜でした。寝耳に水のトレードに不満や涙も見せながらの記者会見は午前4時前まで続きます。もちろん選手に拒否権は無く、阪神一筋の野球人生ではなくなったことで、ミスタータイガースからしばしば外される原因ともなりました。

主砲として復活を果たし、西武の2年連続日本一に大きく貢献

移籍1年目は、中心打者としては平凡な成績に終わり、チームも最下位に沈みました。しかし西武初代監督の根本陸夫は、移籍時点で32歳だった田淵幸一を鍛えなおし、一塁手、指名打者としてチームの主砲に据えます。すると移籍2年目の1980年、43本塁打、97打点と復活しました。さらに、監督が広岡達朗に変わるとリーダーシップを発揮します。管理野球を強いる指揮官とナインの間に立ち、チームを一つにまとめました。

すると同年には西武として初優勝を飾り、日本シリーズでも中日を制して自身初の日本一を経験します。そして集大成となったのが、翌年の巨人との日本シリーズでした。セ・リーグでは入れ替わりで実現しなかった江川卓との対決が注目されます。そして第1戦でいきなりその江川から3ランを放ち、第5戦ではもう一人のエース西本聖からもアーチを放ちました。死闘を繰り広げましたが、西武は2年連続日本一を達成し、田淵も優秀選手賞を手にします。1984年も86試合に出場しましたが、同年限りで引退を表明しました。

ダイエー監督以降は、盟友・星野仙一監督のもとでコーチを歴任

1987年から星野仙一が中日監督、1989年からは山本浩二が広島監督と、同級生たちが監督に就任する中、田淵幸一も1990年から福岡ダイエーホークスの2代目監督に就任します。しかし、低迷期であったことに加えて、他チームとの戦力差は否めずチーム作りに苦労しました。自身も経験したトレードをしようとも相手の応じる選手が不在で、監督自身が一番の人気者という状況となります。生え抜きの選手を育てるしか方法が無いため、初年度はあらゆる数字が最下位で、当然のように順位も最下位に沈みました。結局3年間オールBクラスに終わり、再建には西武時代の恩師・根本陸夫に白羽の矢が立ちました。

その後は監督として立つことは控え、コーチとして指導者生活を送ります。2002年から2年間は阪神タイガースで、2008年は北京五輪日本代表、さらに2011年から2年間は東北楽天ゴールデンイーグルスで、いずれも星野監督の下コーチを歴任しました。


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