名前小林繁(コバヤシシゲル)
生年月日1952年11月14日
日本
出身鳥取県東伯郡赤碕町
プロフィール神戸大丸を経て、1972年巨人に入団。

1976年、1977年と18勝して長島巨人のV1、V2に貢献した。1979年江川との電撃トレードで阪神へ。この年、巨人戦に8連勝するなど、プロ生活で初めての20勝(22勝)投手となる。最多勝利1回、沢村賞2回、ベストナインに2回、オールスターに5回選ばれている。1983年現役を引退。

のち野球評論家、スポーツキャスターとしてTVや雑誌等で活躍。1995年参院選にさわやか新党名簿1位で立候補。1996年10月〜1998年10月近鉄一軍投手コーチを経て、二軍バッテリー総合担当。2007年韓国・SKワイバーンズのコーチ就任。2009年から日本ハムコーチ就任。2010年1月、心不全にて急死。

通算成績は374試合、139勝95敗17S、防御率3.18、2,029回1/3、1,273奪三振。最多勝1回、沢村賞2回、ベストナイン2回。由良育英高卒、右投右打、177cm、62kg

高校時代にサイドスローへ転向し、社会人時代に大きく頭角を現す

小林繁は、鳥取県に生まれ父親の影響で野球を始めます。幼少期から巨人ファンとなり、小学生時代はソフトボール、中学生時代は野球部に所属して本格的にプレーしました。由良育英高校に進学して投手を務めましたが、球威が無く2番手投手に甘んじます。するとエースに対抗するため、サイドスローへ転向し球種も増やすと3年にはエースとなりました。

甲子園出場は叶わず、全大丸へ入社して社会人で野球を続けます。すぐにプロスカウトに注目されましたが、都市対抗野球大会出場を理由にプロ入り拒否姿勢を示しました。1971年ドラフト会議では指名を見送られるはずが、巨人は強行6位指名し、1年間の交渉権を獲得します。翌年、小林の活躍でチームは予選を勝ち抜き都市対抗出場を決めましたが、1回戦で敗れました。目標を達成したため改めてプロ行きを宣言し、同年のドラフトを待つという選択肢もありましたが、父親を喜ばすためにも巨人入団を決意しました。

巨人入団2年目、先発にリリーフにフル回転するなど一軍定着

晴れてプロ野球選手になりましたが、当初は練習についていくのがやっとでした。それでもファームで7勝10セーブ、防御率2.43でイースタンながら優勝投手を経験します。そして終盤の9月初めて一軍登板機会を得て無失点デビューしました。さらにチームがV9を狙う大一番の試合でも登板して無失点と、少ない投球回数ながら存在感を示しました。

2年目の1974年、チーム2位の44試合に登板するなど一軍に定着します。先発登板は9試合でしたが初完封を成し遂げるなど8勝をあげて、防御率2.42はリーグ3位という好成績を残しました。同年、チームはV10を逃し、1975年からは長嶋茂雄が監督に就任します。しかし、投打ともにかみ合わず球団創設初の最下位に転落しました。小林も前年同様、先発にリリーフにフル回転し、5勝6敗、防御率3.31と数字を落としましたが、チームでは上位といえる成績でした。

エースとして長嶋巨人V2に貢献し、投手最高の沢村賞を受賞

1976年、最下位からの優勝を狙う巨人において、小林繁は一躍エースに上り詰めます。キャンプ中に、長嶋監督から先発ローテーション入りが決まり、開幕すると最多勝争いに浮上するほどの好スタートを切りました。初めて200イニングをクリアするなど、ともにリーグ2位の18勝、防御率2.99という成績をマークします、そして自ら胴上げ投手に輝き、長嶋巨人V1の立役者となりました。さらに続く日本シリーズでも獅子奮迅の活躍を見せます。チームは3勝4敗で敗れましたが、小林は6試合に登板して2勝1敗1Sと3勝すべてに貢献しました。

翌年も18勝8敗7セーブ防御率2.91とチームの勝ち頭となり、チームの連覇に貢献。主要投手タイトルこそ獲得できませんでしたが、ともに初となる沢村賞にベストナインを受賞し、名実ともに巨人のエースへと上り詰めます。1978年は調子を落としましたが、3年連続二桁勝利を達成する13勝をマークしていました。その後も、変わらず主力投手として巨人で活躍すると思われましたが、同年オフに「江川事件」が起こり、小林は大きく巻き込まれることになりました。

江川事件でまさかの電撃トレードも、反骨心で巨人キラーとなる

1978年オフ、キャンプイン直前に空港から呼び戻されてホテルへ向かいました。世間で江川卓の巨人入団をめぐる騒動が起きていたことは知っていたものの、その仰天トレードの相手が自分だということをその時悟ります。あまりにも突然で非情な展開に驚きましたが、数時間後に承諾し阪神入りが決まりました。そして騒ぎになることを理由に、チームメイトへの挨拶すら許されませんでした。

こうして1979年、小林繁は縦縞のユニフォームを着ることになりましたが、反骨心をばねにキャリアハイの成績をマークします。巨人への対抗意識を力に変えて、同年の巨人戦は8勝0敗という強烈なしっぺ返しを食らわせました。同年は22勝9敗1セーブ防御率2.89の成績で、初の最多勝とともに2度目となる沢村賞、ベストナインを受賞し意地を見せました。

31歳という若さで、宣言どおり11年の現役生活にピリオドを打つ

移籍2年目、巨人江川と注目の初対決に敗れはしましたが、同年から15勝、16勝と阪神のエースとしてチームに貢献します。しかし巨人時代から痛めていた右肘の状態が芳しくなく、さらに気持ちの面でも移籍1年目の時の様な情熱は失われていました。年々、防御率を落とし、1982年は、先発ローテーション投手になった以降でワーストの11勝に終わると、仰天の宣言をします。翌1983年シーズンで、15勝を実現できない場合は引退すると明言したのでした。

誰もが意気込みの表れと思いましたが、小林だけは本気でした。同年13勝14敗、防御率4.05に終わり、31歳にして現役引退を表明します。しかも、引退会見を行った日はかつて阪神に在籍していた田淵幸一が、日本シリーズで江川卓から本塁打を打ったその日でした。運命にもてあそばれるような小林のプロ野球人生でしたが、通算139勝は、江川の勝利数を4つ上回りました。

引退後、指導者の日々を送る中、突如として人生の幕を閉じる

現役引退後は、野球解説者やサイドビジネスに務めます。1995年にはプロレスラーの高田延彦らと「さわやか新党」を立ち上げ、党首として参院選比例代表区に立候補するも落選しました。1997年から球界に現場復帰して、近鉄コーチに就任します。岩隈久志の育成、2001年のリーグ優勝など確かな手腕を発揮しました。

2007年には、因縁の江川卓とCM共演を実現し、さらに同年から韓国・SKワイバーンズのコーチ、日本ハムのコーチと指導者生活を満喫していました。しかし、小林繁の波乱の人生は突然にして幕を閉じることになります。一軍キャンプインを2週間後に控えた2010年1月、自宅で背中の痛みを訴えると救急車の中で心肺停止状態に陥り、病院での蘇生措置もむなしく帰らぬ人となりました。死因は心不全であり、57歳というあまりにも若すぎる死でした。

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