名前 | 山本功児(ヤマモトコウジ) |
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生年月日 | 1951年12月25日 |
国 | 日本 |
出身 | 兵庫県 |
プロフィール | 三田学園から法大を経て、ノンプロの本田技研鈴鹿へ。
1975年秋のドラフト5位で巨人に入団したが、代打専門の8年。1984年トレードでロッテに入るや代打屋のかげにかくれていた実力が開花、ロッテの中心打者として活躍。1989年シーズン後引退。 一軍打撃コーチ、1997年二軍監督。1998年シーズン終了後、一軍監督に就任。1999年7月チームは18年ぶりの首位に立った。その後8連敗を喫するなど同年は4位に終わる。2003年までロッテ指揮官を務めましたが、オールBクラス。2004年から古巣に復帰してコーチに就任。2005年一軍ヘッドコーチを務めるも5位の責任をとって辞任。 2015年、息子・武白志がDeNA育成ドラフト2位指名を受け入団。2016年肝臓がんのため死去。享年64歳。 通算成績は1,217試合、2,523打数699安打、64本塁打、369打点、13盗塁、打率.277。ダイヤモンドグラブ賞2回。三田学園卒、法政大学卒、左投左打、187cm、95kg |
高校卒業時よりは下位指名も、ノンプロを経て25歳でプロ入り
山本功児は兵庫県で生まれ、パン屋を営んでいた大阪府堺の実家で育ちました。その店舗が、南海ホークス練習場や選手寮に程近かったこともあって、幼少期からプロ野球選手たちから可愛がられます。自身も野球を始めると、三田学園時代は1年からレギュラーを奪うほど実力をつけます。3年春にはセンバツ甲子園に出場し、5番打者としてチームのベスト8入りに大きく貢献しました。
小さい頃からお世話になった南海ホークスからドラフト3位指名を受けますが、法政大学へ進学します。1年からレギュラーを獲るなど順風に思えましたが、自身が主将になった4年には東大にすら敗れるほどチームは低迷しました。高校時代と異なりプロからの指名はなく、一から出直すことを決意して本田技研鈴鹿へ進みます。仕事と野球の両立をしながら練習を重ねると、補強選手として都市対抗野球に出場するようになり、強打の一塁手として1975年ドラフト5位で読売ジャイアンツから指名を受けました。
巨人では王貞治を始め、レギュラーの壁に阻まれて代打に専念
ルーキーとはいえ25歳の山本功児は、1年目から67試合に出場し打率.273、1本塁打、7打点で長嶋巨人初優勝に貢献します。新人王争いでも次点でしたが、一塁手には世界の本塁打王・王貞治が絶対的なレギュラーとして君臨していました。同年も本塁打と打点で2冠王に輝いており、山本の出場は代打か守備固めに限られます。そのため外野手にも挑戦して出場機会増を目指しました。1979年には、一時3番王に続く4番スタメンに抜擢されるというサプライズもありましたが、大きく状況が変わりことはありませんでした。
王が引退後の1981年、ようやく一塁手レギュラーを掴めるかと思いましたが、今度は同期入団の中畑清がライバルとして立ちふさがります。三塁手・原辰徳、二塁手・篠塚和典とともに、一塁手は中畑の定位置となり、外野手兼代打の地位を抜け出せません。1982年は、開幕から正外野手として活躍し、オールスターに選出されるほどとなります。しかし、後半打撃調子を落として再び代打に逆戻りとなるなど、巨人での8年間では一度も規定打席到達することはありませんでした。
トレード移籍したロッテでは、レギュラー一塁手として活躍
1983年オフ、山本功児に大きな転機が訪れました。三宅宗源とのトレードで、ロッテオリオンズへの移籍が決まります。当時のロッテ一塁手は主砲・落合博満が務めていましたが、三塁へコンバートして山本に一塁を譲りました。プロ9年目で、初めてレギュラーを掴むと、同年はキャリアハイの成績を収めます。4番落合のあとを打つ5番打者として125試合に出場し、リーグ10位の打率.301、10本塁打、66打点の成績を残しました。初めて規定打席に到達し、一塁手としてゴールデングラブ賞も手にします。
さらに翌年も主力選手として活躍し、打率.293、10本塁打、67打点と安定した数字を記録しました。同年もゴールデングラブ賞を奪い、ロッテの2年連続2位に攻守で貢献します。その後、愛甲猛の台頭で出場機会を奪われ、1988年限りで現役引退しましたが、トレードにとって大きく花を開かせた選手の一人となりました。
引退後は長年ロッテの指導者を務め、5年間一軍監督も務める
人望が厚い山本功児は、引退後もロッテの指導者として長らくの間貢献します。10年の間に、一軍打撃コーチ、二軍打撃コーチ、二軍監督と様々な役割をこなし、後に主力となる選手たちを育成しました。当初、投手として入団した福浦和也を打者転向させると首位打者をとるまでに成長し、サブローや小野晋吾などまさに後のロッテを支えるメンバーたちは、皆山本の教え子です。自身も苦労人であったことから、よき理解者としてともに汗を流しました。
そして1999年からは満を持して、ロッテ一軍監督に就任します。前年にはプロ野球ワースト記録の18連敗を喫するなど、2年連続最下位というチーム状況としては決してよくない時期でした。ところが、就任1年目、4月、5月を勝率5割で乗り切ると、6月に大きく勝ち越して、7月には一時単独首位に立ちました。ファンは狂喜乱舞しましたが、その後8連敗するなど低迷し4位でシーズンを終えます。
その後長期政権となり、合計5年監督を務めましたが、オールBクラスに終わりました。それでも、生え抜き選手たちにチャンスを与えることで成長させ、監督最終年には借金1の4位と上位チームと戦えるようチーム力を上げます。そして、山本監督時代に成長した選手たちは2年後の2005年に花開いてシーズン2位からの日本一という偉業を成し遂げました。
愛息のプロ野球選手という夢の実現を前にして、無念の死を遂げる
2004年からは堀内恒夫監督の巨人監督就任を機に、コーチとして古巣に復帰します。2年目はヘッドコーチとして手腕を振るいましたが、チームは5位と惨敗し責任を取って監督とともに辞任しました。
その後評論家時代を過ごしてからは、プロ野球界と一線を引いて息子・武白志のプロ野球選手になるという夢を見守る事にしました。九州国際大付に進学すると夫婦で福岡に移住し生活面のサポートをします。そして2015年には、横浜DeNAベイスターズから育成ドラフト2位指名を受け、夢のプロ野球選手まで後一歩というところまでたどり着きました。しかし、そんな矢先の2016年4月、山本功児は肝臓がんで早すぎる死を迎えます。愛息の一軍での晴れ姿を見ずして、帰らぬ人となりました。