名前盛田幸妃(モリタコウキ)
生年月日1969年11月21日
日本
出身北海道茅部郡鹿部町
プロフィール小学4年から少年野球を始め、鹿部中3年の時に投手として北海道準優勝。1987年夏の甲子園大会に南北海道代表として出場したが、1回戦で沖縄水産に敗退。

同年ドラフト1位で大洋に入団。1991年プロ初勝利、1992年オールスターに初出場、8月には5勝1セープを挙げ、月間最優秀選手(MVP)に選ばれた。同年最優秀防御率を獲得。1996年リリーフから先発に転向。

1997年12月近鉄に移籍。1998年左頭頂部に髄膜腫と診断され、手術を受ける。手術直後は右半身を動かせないほどの重症だったが、1999年4月二軍の練習に合流、10月対ロッテ戦で421日ぶりに一軍のマウンドに立つ。2001年ファン投票でオールスターに選出される。同年カムバック賞受賞。

2002年、通算14年の現役生活を引退。2000年妻との共著で闘病の自叙伝「彼女がくれたマウンド」を出版。引退後も脳腫瘍の再発が繰り返され2015年45歳の若さで永眠。

通算成績は345試合、47勝34敗29S、防御率3.21、613回0/3、434奪三振。最優秀防御率1回、カムバック賞。函館有斗高卒、右投右打、185センチ、92キロ

3度甲子園に出場するも、夏は2度とも沖縄水産の前に敗れる

盛田幸妃は、北海道茅部郡鹿部町に生まれると、7歳のとき2歳年下の弟をリンパ肉腫で亡くすという不運に遭います。小学4年生から「鹿部クラップーズ」に入って本格的に野球を始めると、中学生にはチームのエースとなりました。3年では北海道大会で準優勝する実力をつけて、函館有斗高に進学します。

当時チームは強豪で、1年夏から甲子園に出場し自身も聖地のマウンドを経験します。沖縄水産との初戦、エースが打ち込まれて2番手として登板するも自身も3失点し、大敗してしまいました。2年春にも出場し初戦に勝利しましたが自身の登板はありません。続く2回戦は前回同様2番手投手でマウンドにあがりましたが、チームは敗れました。

晴れてエースとなった3年夏、自身3度目の甲子園出場を決めます。奇しくもその初戦は、2年前同様、沖縄水産でした。先発として登板し、8回表まで2-1とリードしていましたが、その裏2点を取られて逆転され、またしても同じ相手に屈してしまいます。それでもプロスカウトから高い評価を受けて、1987年ドラフト会議で横浜大洋ホエールズから1位指名を受けて入団しました。

佐々木主浩へつなぐ中継ぎ投手として頭角を現し、タイトル奪取

ルーキーイヤーから一軍マウンドを経験しますが、プロのきつい洗礼を浴びます。初登板で2本のアーチを浴びると、シーズン終盤の初先発時には先頭打者から二者連続四球を与え、わずか3分でマウンドを下ろされました。2年目は一軍登板無しに終わり、3年目も7試合登板で防御率8.05と大きく期待を裏切ります。

しかし4年目には、プロ初勝利を挙げるなど26試合に登板し多くの経験を積みます。そして翌1992年、ついに大器の片鱗を見せました。当初先発でスタートも6月から中継ぎに固定されると、ストッパー佐々木主浩へつなぐ継投が確立します。中継ぎながらチームトップの14勝をマークし、さらに防御率2.05で最優秀防御率のタイトルも奪いました。佐々木も33セーブポイントで最優秀救援投手に輝き、二人はダブルストッパーとして恐れられました

1993年は怪我で前半戦を棒に振りましたが、1994年は手術で離脱した佐々木に代わってストッパーを務め、8勝4敗16セーブをマークします。1995年には再び中継ぎに戻り、リーグトップの57試合に登板しながら、防御率1.97という素晴らしい成績を残しました。

先発投手へ転向して2年連続開幕投手を務めるも実績を残せず

1996年、横浜監督に就任した大矢明彦は、盛田幸妃を中継ぎから先発投手へ転向させて開幕投手に指名しました。当時はチーム状況が悪く白星先行とは行きませんでしたが、防御率2点台と変わり身の早さを見せます。しかし、調整法の違いに苦しみ不調に陥ると、調子を取り戻せず、5勝9敗と戦力になれませんでした。翌年も、2年連続で開幕投手を任されましたが、先発としては数字を残せず、再び中継ぎへ回ります。そしてこの当時から、右脚に違和感を感じるようにもなっており、オフには近鉄バファローズへのトレード移籍が決まりました。

近鉄へのトレード直後、脳腫瘍を患い選手生命の危機に陥る

新天地では勝手知ったる中継ぎとして、開幕から順調にシーズンを過ごしていました。6月が終わる頃には5勝1敗1セーブと好成績をあげていた矢先、体に異変が起こります。右足首の違和感や痙攣が酷くなり一軍登録を抹消されました。病院での検査の結果、脳腫瘍が見つかり、野球ができない体になる危険性すら宣告されます。それでも復活をかけて12時間に及ぶ手術を受けると、成功しましたが右手にまで麻痺が残りました。

術後の経過は思わしくなく死を口にすることもありましたが、症状が少しずつ回復すると、復活をかけた壮絶なリハビリをスタートさせます。リハビリルームでも多くの刺激を受けると、脅威の回復力を見せて、手術から2ヶ月後には退院しました。

奇跡の復活を果たし、1,082日ぶりの勝利に初優勝も経験

しかし野球選手としてマウンドに上がるには、まだまだ遠い道のりがありました。1999年のキャンプでの合流を目標にリハビリメニューを選手復帰用に切り替えます。懸命の努力で4月、チームに合流すると、今度は失われた球威を戻すためにトレーニングを続けました。当初120キロ台だったストレートが、130キロ中盤まで戻り、8月にはファームの公式戦に379日ぶりに登板を果たします。そしてシーズン最終戦に一軍登録を果たすと、打者二人を相手に一軍復活マウンドに立ちました。

右脚には特性のギプスを付けての投球だけに、2000年もわずか3試合出場に終わりました。しかし翌2001年、盛田幸妃は中継ぎ投手としてチームの起爆剤となり、34試合の登板を果たします。6月には、実に1,082日ぶりの勝利投手となり、オールスターでもファン投票1位を獲得しました。同年、近鉄は見事に12年ぶりの優勝を実現しましたが、盛田にとって初めて味わうリーグ優勝であり、自身のカムバック賞で花を添えました。

現役引退後も脳腫瘍と戦い続け、45歳で人生の幕を閉じる

2002年、2試合の登板に終わり、同年限りでの現役引退を表明しました。通算成績は47勝34敗29セーブと平凡でしたが、奇跡の復活を遂げた盛田幸妃は記憶に残る選手でした。その後は、横浜の球団職員を務めながら、野球解説者として活躍します。

しかし、その後も脳腫瘍は再発を繰り返し、2006年には2度目、2013年には3度目の手術を余儀なくされました。さらに途中2010年には脳腫瘍の転移した骨腫瘍が発生するなど常に病魔と闘います。そして、2015年10月16日、またしても脳腫瘍が再発し、転移性悪性腺腫のため死去という悲しい結末を迎えました。45歳という若すぎる年齢にて人生のマウンドを降りました。

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