名前伊東勤(イトウツトム)
生年月日1962年8月29日
日本
出身熊本県
プロフィール熊本工時代に甲子園に出場。

1981年西武球団の職員となり、翌1982年ドラフト1位で西武に入団。西武の日本一に貢献し、ゴールデングラブ賞も受賞。1997年パ・リーグ新記録のシーズン622連続守備機会無失策を樹立。同年FA宣言するが、残留。2000年対日ハム戦で捕手としては3人目となる2000試合出場を達成。2001年10月兼任コーチ。

2003年限りで現役引退し、2004年西武一軍監督に就任。同年シーズン2位から日本一を達成。2007年、26年ぶりのBクラス5位に転落し退任。2009年WBC日本代表コーチ就任。2012年韓国・斗山ベアーズヘッドコーチ就任。2013年から千葉ロッテ一軍監督に就任。2017年1月野球殿堂入り。

通算成績は2,379試合、7,050打数1,738安打、156本塁打、811打点、134盗塁、打率.247。ベストナイン10回、ゴールデングラブ賞11回、正力松太郎賞1回。所沢高(定時制)卒、181センチ、83キロ。右投右打

球界の寝業師と呼ばれた根本陸夫の計らいで、西武ドラフト1位入団

伊東勤は熊本県に生まれ、小さい頃から野球好きで巨人ファンでした。小学2年生の時、兄・修がやっていたため、躊躇なくマスクをかぶり、俊足だったことから1番捕手として活躍します。その後、野球の名門・熊本工の定時制に通いながら、野球部に在籍し甲子園を目指しました。1980年、3年最後の夏では熊本県大会決勝でエース秋山幸二率いる八代高校を6-4で下して甲子園出場を決めます。さらに本戦でも2勝と捕手・伊東の名は全国区となりました。

当時、西武ライオンズ監督だった根本陸夫は、驚きの方法で伊東獲得を目指します。1981年に熊本工から西武本拠地に近い所沢高校(定時制)に転校させ、さらに西武球団職員として採用しました。アマ選手の囲い込みと世間から批判されましたが、是が非でも欲しい正捕手候補をなりふり構わず獲得に走りました。そして同年ドラフト1位指名によって、晴れて西武ライオンズ入団が決まりました。

監督、コーチによる徹底的な英才教育で、3年目に正捕手の座を掴む

1981年当時の西武捕手は、大石友好、吉本博の2人体制であり、同年オフにベテラン黒田正宏も補強するなど、正捕手不在状態でした。何より経験が必要な捕手のポジションに、ほぼ高卒ルーキーだった伊東勤がいきなり正捕手に抜擢されることはありません。そのためファームでは、新監督となった広岡達朗や森昌彦バッテリーコーチに付きっ切りの指導を受けました。

1年目から33試合、2年目に56試合と一軍試合に出場しながら経験をつみ、ブルペンでも積極的に先輩投手のボールを受けることで性格を分析しました。その間、チームは上昇気流に乗り、2年連続で日本一を達成します。そして貴重な経験も糧にすると、1984年には113試合に出場するなどついに正捕手の座を掴みました。

正捕手時代に2度の3連覇を達成するなど、西武黄金時代を牽引

1984年は、初めて正捕手としてフルシーズンを過ごすも3位に終わります。しかし翌1985年から、西武黄金時代をまさに扇の要として支え続けました。同年、若い渡辺久信、工藤公康らを巧みにリードし、2年ぶりのリーグ優勝を成し遂げます。阪神との日本シリーズでは、バース率いる超攻撃陣の前に屈しましたが、翌年からはその悔しさを見事に結果として示しました。

1986年から、秋山幸二、清原和博を中心とした攻撃陣に、投手陣も充実して圧巻の日本シリーズ3連覇を成し遂げます。1989年は、近鉄、オリックスとの三つ巴の争いとなり、わずか0.5ゲーム差で3位に沈みました。しかし、翌1990年からは、デストラーデも加わりさらに穴がなくなると、同年から再度日本シリーズ3連覇と7年間で実に6度の日本一を達成します。優勝を逃した1989年を除き、1985年から1992年まで捕手部門のベストナインとゴールデングラブ賞を独占しました。

通算1000本安打目は、開幕戦での劇的な逆転サヨナラ満塁本塁打

捕手として守りに定評のある伊東勤ですが、1994年の開幕戦はバットでも大きく貢献しています。同試合の近鉄先発は前年まで4年連続最多勝を記録していたエース野茂英雄でした。初回から奪三振ショーとなり、しかも8回までノーヒットに抑えこまれます。0-3とリードされた9回、野茂に代わってリリーフエースの赤堀元之が登板すると、西武は一気に反撃し、満塁の場面で伊東に打席が回ってきました。もう勢いは完全に西武にあり、逆算サヨナラ満塁本塁打が生まれます。しかも、その安打は伊東の通算1000本安打というメモリアルな一打でした。

引退後、即西武監督として日本一を達成するも、4年目はBクラス転落

1994年、西武はリーグ5連覇を成し遂げますが、巨人との日本シリーズに破れ森祗晶も退任します。流石に黄金時代にも陰りが見られ、伊東勤の後継者育成も毎年の課題となりました。1997年から2年連続リーグ優勝を達成しましたが、日本シリーズには敗れます。後継者は中々育たず、2002年からはコーチ兼任となっても最もマスクをかぶったのは伊東でした。そして2003年、41歳でのシーズンでようやく正捕手を細川亨に譲り、同年限りで現役引退します。

実働22年の間に14度のリーグ優勝、8度の日本一を経験しました。それを物語るように、ベストナイン10回、 ゴールデングラブ賞11回とともに二桁受賞しています。生涯通算打率は.247と低いものでしたが、1,738本の安打を放ち、歴代4位の305犠打も記録しています。捕手として日本記録の134盗塁や、1,263守備機会連続無失策などまさにあらゆる面でチームに貢献しました。

そして現役引退と同時に、2004年から西武の監督に就任します。打線の中軸だった松井稼頭央がFA移籍、さらに主砲カブレラも長期離脱したにも関わらず、何とかシーズン2位を確保しました。そしてプレーオフでは、日本ハム、ダイエーを破り日本シリーズ進出します。日本シリーズでは、同シーズン1勝だった石井貴が2勝をマークしていきなり日本一を成し遂げました。自身が主力だった1992年以来12年ぶりの日本一でした。しかし翌年、勝率5割を割って3位に陥ると、2007年には、交流戦で10連敗するなど、最終的には26年ぶりのBクラス5位に終わり、同年で監督を退任しました。

ロッテ監督に就任すると、2017年が5年目と長期政権を担う

2009年にWBC日本代表コーチ、2012年には韓国・斗山ベアーズヘッドコーチ就任と球界にかかわり続け、2012年オフには、千葉ロッテマリーンズ監督に就任します。2005年、2010年とともに下克上日本一を達成していましたが、それ以外はBクラスが多く、リーグ優勝は1974年から遠ざかっていました。そこで長期的に安定したチーム作りを期待されて、伊東勤に白羽の矢が立ちます。2017年、すでに監督就任5年目と西武監督時代よりも長期政権となっており、過去4年でAクラス3回とBクラス常連だった時代から成長していますが、リーグ優勝を掴むには至っていません。


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