名前 | 山崎武司(ヤマサキタケシ) |
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生年月日 | 1968年11月7日 |
国 | 日本 |
出身 | 愛知県知多市 |
プロフィール | スポーツ万能で砲丸投げの知多市の中学校記録保持者、相撲は八幡中3年の時3日だけ練習して県大会で3位、ジュニアオリンピックの遠投競技で2位。小学校6年から野球を始める。1986年夏には愛工大名電の4番で捕手、主将として愛知県大会5回戦まで進出。
1987年ドラフト2位で中日に入団。1年目はドジャースのファーム、サラソタに野球留学。1989年、1990年ウェスタンリーグで2年連続本塁打、打点の2冠を獲得。1992年8月2試合連続本塁打を放った。1995年レギュラー定着。1996年39本塁打で本塁打王。1999年リーグ優勝に貢献し年俸1億円の大台に乗る。2002年、出場機会が激減し、同年移籍志願。 2003年、オリックスへトレード移籍。しかし成績不振で2004年オフ戦力外通告。2005年からは新規参入の楽天に移籍。2007年、39歳で本塁打、打点の2冠王獲得。2011年に2度目の戦力外通告を受けるも、2012年、古巣中日に復帰。2013年、44歳にして現役引退を表明。 通算成績は2,249試合、7,148打数1,834安打、403本塁打、1,205打点、14盗塁、打率.257。本塁打王2回、打点王1回、ベストナイン3回。愛工大名電高卒、右投右打、181センチ、86キロ。 |
愛工大名電時代、高校通算56本塁打と頭角を現し、プロ入り
山崎武司は、愛知県知多市に生まれ、小学4年生から野球を始めます。中学時代に外野手から捕手へ転向しましたが、この当時本塁打を打ったことはなく、目立っていたのはむしろ他のスポーツでした。すでに体格では群を抜いていた山崎は、野球部以外の助っ人として何度も駆り出されます。陸上部から頼まれて、砲丸投げの大会に出場すると、県大会優勝のみならず全国大会でも準優勝しました。さらに柔道でも市大会で優勝を飾れば、相撲でも県大会3位で全国大会出場し、複数の相撲部屋からスカウトされるほどスポーツ万能でした。
唯一野球では才能を生かしきれていませんでしたが、愛工大名電高のセレクションに合格して進学するといよいよベールを脱ぎます。甲子園出場することはできませんでしたが、高校通算56本塁打など強打の捕手として頭角を現し、1986年、地元球団の中日ドラゴンズから2位指名を受けて入団が決まりました。
早々に捕手失格となり、得意の打棒も影を潜めたまま8年が経過
当時の中日正捕手は中尾孝義が務めており、何より経験がものを言う捕手であったため、山崎武司はファーム暮らしが続きます。しかし、将来の大砲候補として大きな期待を受け、プロ1年目はアメリカドジャース傘下のサラソタに野球留学を許されました。2年目もしっかりファームで経験を積ませるなど、育成に時間をかけられます。
3年目の1989年、一軍正捕手に中村武志捕手が定着し、山崎はウェスタンリーグで本塁打と打点で2冠王を獲得します。そしてシーズン終盤、初めて一軍試合に出場するチャンスを手にしました。しかし、そのわずか1ヵ月後に、捕手失格の烙印を押される試合を迎えます。当時セ・リーグでは、正田耕三と笘篠賢治が激しく盗塁王を争っており、山崎が捕手を務めた試合で、正田にまさかの1試合5盗塁を決められました。1990年も前年に続き2冠を獲得しましたが、捕手を守ることはなくなり、外野手もしくは一塁手として出場します。そして次第に一軍出場も多くなりましたが、プロ8年間で11本塁打と長い低迷期間をさまよっていました。
10年目に長距離打者として覚醒し、松井秀喜を退けて本塁打王
中日は1993年から2年連続2位で、1994年は「10.8」決戦と言われる最終優勝決定戦に敗れていました。悲願の優勝を狙う1995年でしたが、一転してレギュラー陣が不調に陥り山崎武司は多くのチャンスを得ます。そして66試合の出場ながら16本塁打とついに大砲として目覚めるきっかけを掴みました。
1996年からはチームの監督に星野仙一が就任し、20kg近く減量してシーズンに臨みました。すると左翼手レギュラーに固定され、6月には月間13本塁打と量産して、巨人と優勝争いを演じます。チームは夏場に振り切られましたが、松井秀喜(巨人)、同僚・大豊泰昭と三つ巴の本塁打争いを1本差で制し、39本塁打で初のタイトルを奪いました。
1997年以降、広いナゴヤドームに本拠地移転して以降は、不得意な外野守備に苦しみながらも、中日生え抜きの大砲として存在感を示します。1999年には、28本塁打、75打点でリーグ優勝に大きく貢献しました。しかし、2002年から着任した山田久志新監督のチーム若返り方針のため、わずか26試合出場の打率.192、2本塁打と大きく成績を落とし、他チームへの移籍を決断しました。
志願して移籍したオリックスでは、低迷が続きまさかの戦力外通告
2003年1月、オリックス・ブルーウェーブへの移籍が決まります。指名打者としての出場を増やしましたが、低調なチーム状態に自身も引っ張られました。日本人最多の22本塁打を記録しましたが、規定打席も未到達と期待を裏切ります。2年連続でリーグ最下位に終わり、翌年からは伊原春樹監督が着任しました。するとシーズン開幕早々に、伊原監督と確執が明るみに出て、全くチームの戦力になれませんでした。
楽天で野村克也と出会い、39歳で完全復活を告げる2冠王獲得
2004年オフは、野球ができる心理状態でもなく、オリックスからも戦力外通告を受けます。そのまま引退することも脳裏をよぎりましたが、新規参入球団の東北楽天ゴールデンイーグルスからラブコールを受けて、36歳ながら現役続行を決断しました。初年度、明らかに戦力が劣るチームの中で、25本塁打と唯一長打が打てる打者として発奮します。そして、2年目に野村克也が新監督として就任すると、再び打者として覚醒しました。野村の提唱する「考える野球」に惚れ込み、配球を読んで打つことを実践します。すると2007年は、ともにキャリアハイの43本塁打、108打点で本塁打と打点の2冠王を手にし、チームの4位躍進に貢献しました。
その後も、26、39、28本塁打とチームの長距離打者として活躍し、そして初めて務めるチームリーダーとしても若いチームを牽引します。2009年には球団創設初のAクラス2位まで順位を押し上げました。楽天移籍7年目、チームトップの11本塁打、48打点をマークしましたが、若返りを図るチーム方針で、自身2度目の戦力外通告を受けました。
現役生活最後は古巣中日に戻り、通算24年、403本塁打で引退
山崎武司は、楽天からのコーチ要請を断り、43歳にして現役続行を望みました。そして、10年ぶりに古巣中日ドラゴンズへの復帰が決まります。オープン戦でも年齢を感じさせない活躍を見せ、2012年開幕戦には4番一塁手としてスタメン出場しました。しかし、ほとんど成績を残せず、途中骨折もあって引退は規定路線でした。ただ当時の高木守道監督は、翌年も戦力として残し、24年目のシーズンに突入します。代打としての起用が多くなりましたが、やはり年齢には勝てず、シーズン途中に現役引退を表明しました。
2度も戦力外通告を受けながらも、現役生活を24年続け、歴代17位の403本塁打を積み上げました(2016年末時点)。しかし特筆すべきは、その半数に近い196本をベテランと言われる36歳を過ぎてから放ったことです。現役引退後は、野球解説者を務めながら、車好きの延長でモータースポーツ活動も続けています。