中田英寿について

名前中田英寿
生年月日1977年1月22日
日本
出身山梨県甲府市
プロフィール小3でサッカーを始める。韮崎高校では目立った活躍はなかったが、早くから各世代のユース代表を経験。

95年Jリーグの11クラブからオファーを受け、ベルマーレ平塚(当時)を選択。同年のワールドユース大会ではブラジルに敗れたもののベスト8に進出し、そのプレーが絶賛される。96年史上最年少で五輪代表となりアトランタ五輪に出場、豊富な運動量、強烈なシュート、正確なセンタリングで得点にからむ。97年対韓国戦で日本代表入り。98年7月W杯フランス大会では、日本の司令塔的役割を果たし、海外のサッカー関係者から高い評価を受ける。

W杯終了直後、イタリア・セリエAの下位クラブ・ペルージャに電撃移籍。9月対ユベントス戦で2得点を挙げ、鮮烈なデビューを飾る。セリエA1年目は34試合中33試合に出場、通算10ゴールで得点ランク23位タイとペルージャのセリエA残留に貢献した。

2000年1月実力が認められ、シーズン途中でセリエAの名門クラブ・ローマに移籍。2月対ペルージャ戦で移籍後初ゴール。同年シドニー五輪代表では日本の決勝トーナメント進出に貢献。ローマ所属2年目のシーズンは、セリエAのEU外選手枠に阻まれ出場の機会が減ったが、01年5月EU外選手枠が撤廃されスーパーサブとしてローマの優勝争いに貢献。6月ローマは18年ぶりに優勝を決め、日本人として初のタイトル獲得となった。同月コンフェデレーションズ杯で日本の準優勝に貢献。7月セリエAのパルマに移籍。日本を代表するMFとして世界を舞台に活躍している。

175センチ、72キロ。愛称ヒデ。2000年にはJ2に降格した古巣ベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)のスポンサーとなり、経営面でバックアップ。同年スカイパーフェクTVでサッカー番組「nakata.net TV」を開始。

各世代でユースを経験。早くから実力を発揮

後に日本代表のサッカー選手として活躍する中田英寿は小学3年生の時に兄の影響でサッカーをはじめました。するとすぐに才能を開花させた中田は中学生になるとU-15の日本代表に選抜。この頃の中田はMFではなく、FWとして登録されていました。

それ以来、中田は各世代のユースに選出されるという圧倒的な活躍を見せました。韮崎高校時代も中田は2年生の時に全国高校サッカー選手権に出場。ユースで見せた華々しい活躍から比べると目立ったものではありませんが、その存在は早くから知られていました。

マイアミの奇跡、ジョホールバルの歓喜の立役者に

高校を卒業した直後、中田英寿にJリーグのクラブが殺到します。当時あった12クラブのうち、11クラブが中田へオファーを出しますが、中田はその中でベルマーレ平塚を選び95年に入団。まもなく中田はゲームメイク能力を買われてトップ下にコンバートされます。

中田の知名度が全国に知れ渡ったのは96年のアトランタオリンピック。この大会、中田は日本サッカー史上最年少で日本代表に選出されました。この時のグループリーグで日本代表の相手はサッカー大国であるブラジル代表。絶対不利と言われる中で日本代表は1-0で勝利するというジャイアントキリングを見せ、後に「マイアミの奇跡」と称されますが、この奇跡を起こした一人に中田が名を連ねていました。

さらに中田は97年になると韓国との親善試合でフル代表に初招集。これを皮切りに中田は日本代表のレギュラーに定着し、W杯アジア最終予選で苦しむチームをW杯初出場へ導く原動力となりました。その中でも中田の活躍が知られるのはアジア第3代表決定戦となったイラン戦。後に「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれるゲームでした。

この試合、中田は日本代表が挙げた3ゴール全てに絡み、中でも決勝点となった岡野雅行のゴールの起点を作ったことで中田は世界から注目されるようになります。日本の悲願とも言えるワールドカップ初出場に大きく貢献した中田はこの試合を機に海外のビッグクラブからも注目されるようになります。

ペルージャ入りを機に、海外サッカーで活躍する先駆者に

98年、ワールドカップ日本代表として選出された中田英寿ですが、チームは世界の壁に阻まれる形で予選リーグ敗退を喫してしまいます。しかし、中田のプレースタイルは海外のビッグクラブからも認められ、ワールドカップ終了後に海外のクラブを中心に中田争奪戦が始まりました。その中で中田が選んだのはセリエAのペルージャ。決してビッグクラブとは言えないチームではありましたが、ビッグクラブでは出場機会が得られない可能性がるため、出場機会を優先させて中田はクラブを選びました。

その移籍初年度となった1998-99シーズンの開幕戦、ペルージャはジネディーヌ・ジダンを擁するユヴェントスFCと対戦しますが、中田は強敵相手に2ゴールを奪うという派手なデビューを飾り、シーズン通算でも34試合中33試合に出場して10得点を挙げてペルージャのセリエA残留に貢献します。

弱小クラブの中心選手ということで中田を獲得しようというクラブの数は増え、1999-2000シーズンの途中に中田は名門ASローマへ移籍することに。当時の監督、ファビオ・カペッロの強い要望で移籍した中田は2月に行われた古巣のペルージャ戦で初ゴールを決めるなど、その期待に応える活躍を見せました。また、この年に開催されたシドニーオリンピックでも中田は日本代表に選出され、決勝トーナメント進出、ベスト8入りに大きく貢献します。

しかし、この年はセリエAの外国人枠に阻まれる形で中田のローマでの出場数は激減。本格的な活躍は2000-01シーズンまで待たねばなりませんでした。この年の5月に外国人選手枠が撤廃されると、中田はスーパーサブとしてローマの優勝争いに貢献。6月になるとローマは18年ぶりに優勝を決め、中田は日本人として初のタイトル獲得となりました。

またこの直後に行われたコンフェデレーションズ杯に中田は日本代表に招集され、日本の準優勝に貢献します。そして7月になるとセリエAのパルマに移籍。熾烈なレギュラー争いを制して、イタリア杯優勝などの活躍を収めます。

ドイツワールドカップで燃え尽き、29歳で現役引退へ

2002年、25歳になった中田はこの年行われる日韓ワールドカップに参戦。日本代表の精神的支柱として活躍し、チュニジア戦ではヘディングで自身初となるワールドカップでのゴールを決めます。これらの活躍が決め手となり、日本代表は史上初の決勝トーナメント進出を果たします。

パルマに戻った中田は新監督のチェーザレ・ブランディリに認められ、右サイドハーフのレギュラーとして起用されますが、2003-04シーズンにボローニャへのレンタル移籍を決断。しかし、この頃から中田はグロインペイン症候群を発症してしまいます。しかし、不屈の闘志で中田は復帰し、ボローニャのセリエA残留に貢献します。

その後、ACFフィオレンティーナ、ボルトン・ワンダラーズなどチームを転々とするようになった中田ですが、かつてほどの存在感を発揮できなくなりました。そんな中で迎えた2006年のドイツワールドカップ。2大会連続の決勝トーナメント進出を期待される日本代表の中心選手として中田は出場しますが、結果はまさかの2敗1分けという惨敗。中田自身も目立った活躍ができず、大会終了後に中田は現役引退を発表します。

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