加藤大治郎について

名前加藤大治郎
生年月日1976年7月4日
日本
出身埼玉県浦和市
プロフィール3歳ころからポケバイに乗る。85年ポケバイ全日本選手権総合優勝。高校生の94年全日本GP250ccクラスに初フル参戦、総合7位。96年は同クラス総合2位。

97年4月世界GP第2戦日本GP250ccクラスにスポット参戦し、世界GP初優勝。同年全日本GP250ccクラス総合優勝。

98年4月世界GP第1戦日本GP250ccクラスに参戦し、2連覇。

99年全日本GP250ccクラスで5回優勝し、総合2位。

00年7月宇川徹とのペアで鈴鹿8耐に参戦し、初優勝。同年より世界GPにフル参戦、第15戦パシフィックGP250ccクラスなどで優勝し、総合3位に入る。

01年世界GP開幕戦の日本GPから4連勝。同年10月マレーシアGPで優勝し、初の総合優勝を果たす。11月最終戦のブラジルGPで、250ccクラスのシーズン最多記録となる11勝目を挙げる。162センチ、48キロ。イタリアのチーム・クレッシーニを経て、ホンダに所属。

両親のプレゼントから始まったレーサー生活

加藤大治郎がレーサーになるキッカケとなったのは3歳のころの誕生日でした。この時加藤は両親からポケットバイクをプレゼントされました。これによりレース感を鍛えた加藤は弱冠5歳にしてレースデビューを果たします。当時の自宅近くに遭ったサーキット場で毎日のように練習を重ねていきました。

加藤がサーキットに通いだした頃、同じサーキットには武田雄一、亀谷長純、そして阿部典史らといった後にロードレースのライダーとして活躍する選手たちが多く集まり、彼らと競うことで加藤はその素質を開花させていきました。

5歳にしてレースデビューをした加藤は9歳のころに迎えた85年のポケバイ全日本選手権で総合優勝を飾ります。その後、加藤は11歳になるとポケットバイクからミニバイクのレースにステップアップ。以来、加藤は負けなしの連戦連勝を誇り、才能の片りんを見せるようになっていました。

高校進学後も加藤はレーサー活動を続け、16歳になった92年にバイクの免許とロードレースライセンスを取得しました。この年から本格的にロードレースデビューを果たし、93年には熊本にあるホンダ系の名門チーム「Team高武」に加入します。GP250、GP125、SP250と九州選手権の3クラスですべて優勝し、さらに関東選手権や鈴鹿選手権といった大会でも加藤は勝利を収めます。学業と並行しながらのレース活動ながら、驚異の好成績を残していきました。

全日本選手権にフル参戦。好成績を連発

そして94年、加藤大治郎は2階級の特別昇格によって国際A級ライセンスを取得しました。これにより全日本GP250ccクラスに出場できるようになりました。初のフル参戦となったこの大会で加藤はホンダRS250Sを駆って総合7位の成績を収めます。転倒も多く、本調子とは言えなかったものの終盤に迎えたTIサーキット英田では初優勝を飾ります。さらにこの年には鈴鹿8耐にも辻本聡とのペアで参戦するなど、レーサーとしてターニングポイントになる年となりました。

翌95年、加藤は前年の活躍を見たHRCからワークスマシンとしてホンダのNSR250を貸与されます。このマシンで加藤は全日本GP250ccで2勝を挙げ、ランキングは5位に。96年はさらに成績を伸ばして4勝を挙げて2位に浮上しました。そして鈴鹿で行われたロードレース世界選手権日本GPではスポット参戦し、3位に食い込みます。

弱冠21歳の若者がここまで大活躍を収めることも異例ですが、それだけの才能があることに世界中のモータースポーツファンが震撼します。そのためカストロール・ホンダに加入した97年、加藤はチャンピオン候補の筆頭として目されるようになります。

しかし、シーズン前に加藤は交通事故に遭ったために全日本選手権の開幕戦を欠場せざる終えなくなりました。これにより、日本GPへのスポット参戦も不安視されましたが、加藤の強い意志によって強行出場をします。骨折した状態のままレースに参戦します。

予選3位から迎えたこのレース、加藤は宇川徹、原田哲也らとトップ争いを繰り広げ、最終ラップの最終コーナーで加藤は先頭に立つと、後続を振り切ってそのままゴール、見事に世界GP初優勝を飾りました。さらに全日本でも8勝を挙げて、初の全日本選手権チャンピオンに輝きました。

王者ちして迎えた98年。加藤は4月の世界GP第1戦、日本GP250ccクラスに参戦すると見事に優勝して前年に続いて2連覇を達成します。しかしこの年はマシンをフルモデルチェンジしたことで熟成がうまく進まず、HRC全体がスランプに陥りました。その中で加藤は日本GPを連覇したことには大きな価値がありました。しかし、全日本選手権では1勝も挙げられずに8位に低迷しました。

このリベンジというわけではないでしょうが、加藤は99年に復活を果たします。ライバルであるヤマハの松戸直樹とのタイトル争いを展開し、全日本GPでも5回優勝するなど復活の兆しを見せましたが、惜しくも松戸に敗れる形で総合2位に終わりました。

悲願の総合優勝。年間最多勝タイ記録も

2000年、加藤大治郎はイタリアのグレシーニ・レーシングに加入。活躍の拠点をイタリアへと移していきました。この年はGPライダーとしてロードレース世界選手権250ccクラスにフル参戦し、鈴鹿で行われた第3戦目の日本GPでシーズン初勝利、シーズン終盤にも3勝を挙げてランキング3位に浮上。第15戦目のパシフィックGPでは中野真矢との壮絶なトップ争いを制して優勝を飾ります。さらに7月には宇川徹とのペアで鈴鹿8耐に参戦して見事に優勝を飾ります。

01年には世界GP開幕戦の日本GPから加藤は破竹の4連勝を果たします。悲願の総合優勝の期待がかかりますが、10月のマレーシアGPで優勝したことで悲願とも言える初の総合優勝を果たしました。そして最終戦のリオGPでも勝利してGP250ccクラスの年間最多勝利記録に並ぶ11勝をマーク。加藤の存在はモータースポーツファンの枠を飛び越え、スポーツファンの注目を集めるようになります。

肉体改造後に待っていた波乱の結末

2002年、加藤大治郎は最高峰クラスのMotoGPクラスにステップアップ。体の小さい加藤にとってMotoGPマシンは大きすぎて扱いきれなかったのか、この年は優勝することなくシーズンを終えてしまいました。

そして翌03年、加藤は前年のリベンジとばかりに肉体改造に着手し、MotoGPマシンに負けないだけの体力・筋力をつけて臨みました。この加藤の存在を何より怖がったのが王者のバレンティーノ・ロッシ。いつしか加藤はロッシ最大のライバルと目されるようになりました。

そんな中で迎えたシーズン開幕戦は鈴鹿で行われた日本GPでした。この時の加藤は予選を11位で通過します。決勝ではまずまずのスタートをきり、4位争いの集団につけました。

ところが3周目、130Rの立ち上がりでマシンが左右に激しく揺さぶられてしまい、コントロールを失います。加藤は立て直そうと試みましたが、その先のシケインのスポンジバリアに激突、この事故によって加藤は意識不明の重体に陥ります。

事故直後にヘリコプターで病院に搬送されましたが4月20日、脳幹梗塞のため意識が戻ることなく加藤はわずか26歳にしてこの世を去りました。

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