風間八宏について
名前 | 風間八宏 |
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生年月日 | 1961年10月16日 |
国 | 日本 |
出身 | 静岡県静岡市 |
プロフィール | 清水高3年のときワールドユース東京大会の代表選手となる。筑波大学1年で全日本入りを果たし、以後4年間メンバーとして活躍。
昭和59年卒業と同時に単身で西ドイツに渡り、レバークーゼンのアマ研修生となる。翌年オーバーリーグ(3部)所属の“BVL・08・レムシャイト”に移り、61年2部昇格を決め、西ドイツでは3人目の日本人プロ選手となる。その後ブラウンシュバイクFCを経て、平成元年帰国し、マツダ(現・サンフレッチェ広島)と契約。Jリーグ発足後もMFとして活躍し、94年第1ステージの優勝に貢献。98年退団、同年8月ドイツ・レムシャイトに復帰し、1年間本場のサッカーに取り組んだ。帰国後、桐蔭横浜大学サッカー部監督に就任。 フジテレビのシドニー五輪サッカー解説など、サッカー中継解説も務める。著書に「プロフェッショナルサッカー 終わりなき挑戦」がある。 |
名門校の監督が絶賛。学生ながら全日本入り
風間八宏が生まれたのは静岡県清水市したで。日本屈指のサッカー所でした。そのため幼少期からサッカーに慣れ親しんできた風間はすぐにその素質を開花させていきました。
最初に風間の才能に惚れこんだのは清水商業高校の監督、大滝雅良でした。風間のプレーを一目見ただけで「教えることが何もない」と評するほどで、それまでの大滝の指導法を買えるほどの実力でした。そのため、風間は3年連続で静岡県の高校ベストイレブンに選出されました。
また、79年に風間は18歳にしてFIFAワールドユース選手権の日本代表選手にも選出されました。同年代の鈴木淳、名取篤らとともに高校生トリオとして名を馳せました。
高校卒業後は筑波大学へ進学しました。1年生の時から全日本入りを果たし、80年には香港で行われた1982 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選にレギュラーとして出場しました。以来、風間は大学4年間を通じて日本代表入りを果たしています。
西ドイツへサッカー留学。現地でサッカー選手として活躍
この頃の学生選手は大学卒業後、サッカーを続けるには実業団のチームに入るのが一般的でしたが、風間八宏は国内の実業団チームへの入団を希望しませんでした。より高いリーグでプレーをしたいと考えた風間は茨城県リーグのジョイフル本田に所属します。そして84年、ロサンゼルスオリンピック予選が終わった後に風間は大学時代の恩師である松本光弘の紹介で西ドイツのバイエル・レバークーゼンIIとアマチュア契約にて入団します。
翌85年、風間はオーバーリーグという3部リーグ所属の“BVL・08・レムシャイト”というチームに移ります。ここで風間は活躍し、チームの勝利に大きく貢献。風間の存在もあってチームは86年に2部昇格を果たします。これで風間は西ドイツでは史上3人目の日本人プロ選手となりました。後に風間はブラウンシュバイクFCに移籍するなど、5年間にわたり西ドイツのプロリーグを転々とし、海外サッカーのレベル差を知り、自身の知識を深めていきました。
そして89年、5年間にわたるドイツでのプレーを終えた風間はマツダSCへ入団します。当時2部リーグに所属していたマツダSCは風間の加入で戦力が強化されたのをキッカケに90-91年シーズンは好成績を残して1部リーグに返り咲きました。
サンフレッチェ広島を支えたキャプテンに
1993年、日本サッカー界に革命が起き、Jリーグが発足します。風間八宏が所属していたマツダSCはサンフレッチェ広島として生まれ変わりました。ミッドフィルダーとして起用された風間はその開幕戦、開始1分にゴールを決めます。この風間のシュートはサンフレッチェ広島の最初のゴールとともに日本人選手としてのJリーグ最初のゴールとして記録されています。
93年時点で風間はすでに32歳。サッカー選手としてはもうベテラン選手の部類に入っていました。そのため風間はチームのキャプテンとして若手選手を鼓舞して奮い立たせ、チームの精神的支柱として活躍していました。風間のパスを起点とした攻撃は広島の武器となりました。
そうして95年、風間は広島を退団しました。もう一度ドイツに渡り、FCレムシャイトへ入団します。しかし、この時点で34歳となった風間はさすがに体力的に追いつけず、この年を限りに退団しました。そして間もなく、風間は現役を引退しました。
あらゆるコーチを務め、Jリーグクラブの監督に
現役引退後、風間八宏は桐蔭横浜大学のサッカー部監督に就任します。ドイツで学んだこと、そして自身の経験をもとに学生たちに伝授し、多くの選手たちの指導に努めました。そして04年、風間はJFA公認S級コーチライセンスを取得しました。これにより風間はJリーグなどのクラブチーム、そして日本代表等の監督になる権利を得ました。
08年から風間は母校の筑波大学のサッカー部監督、そして12年からは川崎フロンターレの監督に就任しました。17年ぶりにJリーグに復帰します。川崎を4年間指揮を執りましたが、その高い指導能力を買われた風間は17年より名古屋グランパスエイトの監督に就任しました。J2に降格したチームを救うべく今もなお奮闘中です。