名前福浦和也(フクウラカズヤ)
生年月日1975年12月14日
日本
出身千葉県習志野市
プロフィール小1で野球を始める。習志野高では1年からエースで4番を打ち、高校通算20本塁打を記録。3年時の春には練習試合ながらノーヒット・ノーランを達成したこともある。

1994年ドラフト7位でロッテに投手として入団。入団1年目の夏から打者に転向し、1997年7月一軍登録。1998年チームの三番打者に定着するほどに成長。2001年打率.346で初の首位打者を獲得。同年から6年連続で打率3割を達成。2003年からは2年連続でリーグトップの二塁打を記録。2010年、指名打者部門でベストナインを受賞し、チームの日本一に貢献。

通算成績は2,082試合、6,720打数1,932安打、117本塁打、906打点、10盗塁、打率.288(2016年まで)。首位打者1回、ゴールデングラブ賞3回、ベストナイン1回。習志野高卒、左投左打。183センチ、82キロ

ドラフト会議では、12球団最後に指名がかかりロッテに入団

福浦和也は、千葉県習志野市に生まれ、高校卒業まで地元で育ちます。小学1年生から野球を始め、掛布雅之、谷沢健一らを輩出した名門・習志野高校へ進学しました。投打にセンス抜群の福浦は、1年生ながらエースに4番を務めます。高校3年間で甲子園出場という夢は叶いませんでしたが、投げてはノーヒット・ノーランを経験、打っては高校通算20本塁打と千葉県において目立った活躍を示しました。

地元球団である千葉ロッテマリーンズが評価して、1993年ドラフト会議において7位で指名します。ロッテ以外の11球団は6位までで指名を終えたため、12球団最後に呼ばれたのが福浦であり、背番号70という重い番号を背負ってプロスタートとなりました。

投手失格の烙印を押されるも、センスを認められ打者転向を決意

当時のロッテに希少だった左投手ということで、将来を見越しての指名でしたが、まずプロの大きな壁に苦しめられます。入団早々に肩を故障し、投球練習すらできない日々が続きました。さらに明らかに体力でも劣り、二軍練習ですらまともについていけませんでした。そして1994年シーズンが開幕すると、当時二軍打撃コーチを務めていた山本功児に、同期のドラフト6位入団だった小野晋吾とともに呼び出されます。

すると二人の若い投手二人は、まさかのバッティングテストをされました。マシン相手に鋭い当たりを連発し、すぐさま福浦は打者転向を切り出されます。打撃の才能を見出されての提案でしたが、もちろんすぐに投手を諦めることはできませんでした。しかし山本コーチは会うたびに転向を勧め、夏には折れて決意します。そしてそこから二人三脚での猛練習がスタートしました。通常の練習に加えて、空きの時間があれば特打や休日練習など、丸3年間は二軍で汗にまみれてバットを振り続けました。

突如訪れた一軍チャンスを生かすと、不動のレギュラーへと成長

プロ4年目の1997年7月、福浦和也に突然一軍出場のチャンスが訪れます。一塁手を守っていた外国人トンプソンの故障により、一軍昇格即スタメンに抜擢されました。しかも4回の第2打席で、センター前にプロ入り初安打も記録します。翌日はスタメンから外れましたが、代打で登場し左投手から安打を放ち、近藤昭仁監督の信頼を得ました。するとトンプソンを外野手に追いやり、自身が一塁手レギュラーとして定着します。8月にはプロ初本塁打も記録し、月末からシーズン最終戦まで3番打者として出場し続けました。結局67試合に出場し、打率.289、6本塁打、23打点と好成績を残しました。

1998年からは、背番号が9に変更され、名実ともにロッテのレギュラーとして定着します。2000年までの4年間で3度規定打席に到達し、一塁手に加えて外野手としても出場を増やします。打順も3番や5番など中軸を打つことが多く、2000年にはリーグ11位の打率.296をマークするまでになりました。

打率.346で初の首位打者を獲得すると、6年連続打率3割を達成

1999年からロッテの監督には、恩師・山本功児が就任しており、福浦和也は安定した打撃でチームに恩返しをしました。2001年、再び一塁手として固定されると、初めて二桁本塁打を記録するなど長打力をアップさせて、中距離打者として安打を量産します。小笠原道大(当時・日本ハム)と熾烈かつハイレベルな首位打者争いを繰り広げ、打率.346で初の首位打者に輝きました。

そこから6年連続で打率3割を達成するなど、リーグを代表する打者となります。2003年にはキャリアハイの21本塁打、76打点に初のゴールデングラブ賞を受賞しました。同年から2年連続でリーグトップの二塁打も放ち、2005年にはシーズン2位からの日本一という下克上にも貢献しました。

2010年、初のベストナインを受賞し、史上最大の下克上に貢献

2007年、開幕から故障すると、6年連続で続けていた打率3割を達成できず、キャリアワーストの成績に終わります。オフにはメジャーリーグ挑戦も噂されましたが、FA権を行使せずにチームへの残留を決めました。2008年、2009年も打率は2割台でしたが、ひと時の絶不調状態から脱します。

そして迎えた2010年、かつての輝きを取り戻しチームの大偉業達成に貢献します。指名打者メインで出場を続け、規定打席には到達しませんでしたが、打率.295、13本塁打、61打点と好成績を残しました。同年はシーズン3位から、クライマックスシリーズ、日本シリーズを勝ち抜き、史上最大の下克上と呼ばれた日本一を達成します。福浦和也は指名打者部門で初のベストナインを受賞し、最高のシーズンを締めくくりました。

ロッテ一筋24年目、通算2000本安打に向けてカウントダウン

2011年以降は、チームでもベテランの域に達し、スタメン出場する機会が減っていきます。それでも精神的支柱としてチームを支え、2015年には、史上48人目の通算2000試合出場を達成しました。

2017年、ロッテ在籍24年目を迎え、フランチャイズプレイヤーとしては12球団最長となりました。さらに、井口資仁が同年限りでの引退を発表し、同年代の選手たちがまた一人減っていきます。それでも、2016年末現在で、残り68本となった通算2000本安打達成に向けて、41歳でもバットを振っています。もしも、福浦和也が偉業を達成すれば、ドラフト7位指名選手としては、福本豊に次ぐ史上2人目の快挙となります。

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