安藤優也について

名前 安藤優也
生年月日 1977年12月27日
日本
出身 大分県大分市
プロフィール 大分・雄城台高時代は甲子園出場経験無し。法大時代は3年生の時に右肩痛に悩まされ、1年間全く投げられませんでした。00年トヨタ自動車に入社後才能が開花、注目される。01年10月自由獲得枠で阪神に入団内定を果たす。MAX150キロの速球が武器で、変化球の切れにも定評がある。183センチ、83キロ。右投右打

高橋由伸に打たれた男のイメージを覆すべく、社会人野球へ

安藤優也が野球を始めたのは小学生の頃でした。地元大分県にあった「ふじが丘少年野球団」が最初に所属したチームとなりました。ちなみにこのチームで安藤の後輩となる選手には後に楽天ゴールデンイーグルスで首位打者のタイトルを獲得した鉄平などがいます。

当時から大柄な投手だった安藤ですが、大分雄城台高校時代は県大会ベスト8が最高成績という無名の存在でした。法政大学へ進学した当初も故障がちでなかなか登板することができませんでした。

そんな安藤のハイライトシーンとして挙がるのが98年の秋季リーグです。2年生だった安藤は当時慶応大学に所属していた高橋由伸に六大学リーグ通算本塁打数で新記録となる23本目の本塁打を献上し、「由伸に新記録を与えた男」と呼ばれるようになります。その後も安藤には右肩の故障がついて回り、結局大学4年間の通算成績は7勝4敗に終わってしまいました。

卒業当時、プロからも声がかからなかった安藤は地元の大分銀行に就職して軟式野球を続けるつもりでいましたが、安藤の頭に残っていたのは「由伸に新記録を与えた男」の敬称でした。いつまでもその名で呼ばれるのは御免とばかりに、安藤は大分銀行の内定を辞退して、社会人野球の名門チームであるトヨタ自動車へ入社します。

そしてトヨタ自動車に入社した安藤はもう別人のような輝きをみせました。ストレートの最速は150キロを超え、本格派右腕投手として注目を集めるようになりました。社会人野球の花形である都市対抗野球大会にも2年連続で出場し、01年のIBAFワールドカップ日本代表にも選出されました。

社会人野球で大きく化けた安藤に注目したのは阪神タイガースでした。即戦力投手が欲しいというチームのニーズにこたえる形で安藤は01年のドラフト会議で阪神タイガースへ自由獲得枠での入団を果たしました。くしくも由伸が在籍する巨人のライバルチームに所属することで、由伸へのリベンジの機会をうかがうことになりました。

伊良部秀輝の指導を受けて、セットアッパーとして台頭

安藤優也が入団した当時の阪神タイガースは「変革のシーズン」ともいわれていました。監督も前年まで中日ドラゴンズを率いていた星野仙一に替わり、ダメ虎と呼ばれていた弱小チームは変化を遂げていきました。先発で期待されていた安藤は開幕一軍入りを果たすと、開幕2カード目の4月7日、ヤクルトスワローズ戦でプロ入り初登板・初先発を飾ります。

2回目の登板となった14日の横浜ベイスターズ戦で初勝利を挙げましたが、それ以降はぱっとせず、この年の安藤の成績は17試合に登板して3勝5敗、防御率も3.77でした。チームも開幕当初は勢いに乗っていましたが、6月からは失速、結果的に4位に終わりました。

安藤の持ち味である速球を痛打される場面が目立ったためか、翌03年、星野監督は安藤を中継ぎへと配置転換をします。そして、この年に阪神へ移籍してきた伊良部秀輝との出会いが安藤を大きく変えるものでした。

どちらかと言えば両投手の体型はあんこ型で、しかも速球を武器にするピッチングスタイルも同じでした。経験で勝る伊良部は安藤へのアドバイスを惜しまず、また安藤もメジャー帰りの伊良部のアドバイスを受け入れたことで成績が向上しました。クローザー役を務めたジェフ・ウィリアムスへのつなぎ役であるセットアッパーを完璧にこなして、51試合登板、5勝2敗5セーブ、防御率は1.62という素晴らしい成績を残しました。そして、阪神の18年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献しました。

そしてこの活躍もあり、安藤は翌年に行われるアテネオリンピックの野球日本代表入りを果たし、翌04年には日の丸を背負って戦いました。

先発転向で岡田阪神の優勝に貢献

アテネオリンピックの野球日本代表にも選出された安藤優也ですが、肝心の04年シーズンの成績はいまひとつでした。1点台まで落とした防御率はまたも3点台半ばまで上がってしまいました。

そのため、現状を打破するべく安藤が目指したのは先発への転向でした。2年目を迎える岡田彰布監督との話し合いの末に05年シーズンは先発投手として起用されます。この年から安藤は投球フォームを二段モーションから一段モーションに変更します。これが功を奏したのか安藤は先発投手として11勝を挙げ、リーグ最高勝率を記録します。チームの2年ぶりのリーグ優勝の主戦投手として申し分ない活躍を見せました。翌06年も故障に見舞われながらも2年連続の二桁勝利を挙げて、年俸も1億円寸前の9800万円まで上がりました。

そんな安藤がキャリアハイの成績を収めたのは08年でした。この年は春季キャンプからハイペースで調整し、オープン戦で好投します。その甲斐あって初の開幕投手を任されると5回2失点で勝利投手になりました。チーム最多勝、自己最多勝となった13勝を挙げました。しかし、首位を快走していたチームはこの年の夏から歴史に残る失速を見せてまさかの2位に終わります。

安藤も首位攻防戦となった10月8日の巨人戦で先制を許すなどピリッとしない投球で沈みゆくチームを救うことができませんでした。それでも年俸は1億2000万円まで上がり、念願の1億円投手の仲間入りを果たしました。

中継ぎ投手として復活。17年シーズン初登板はいつ!?

念願の1億円選手となった安藤優也はその後、12年まで先発投手として起用されましたが、この間の通算成績は13勝22敗。中でも11年には故障に見舞われわずか1登板に終わるという事態に陥りました。年齢による衰えも顕著で、13年からは再び中継ぎに復帰します。58試合に登板して23ホールドを挙げる活躍を見せて復活します。

そして14年、安藤は防御率こそ3.80と安定感を欠きましたが53試合に登板して(6勝2敗)をマーク。チームのクライマックスシリーズ進出に大きく貢献し、さらにクライマックスシリーズ本戦では初勝利もマークします。これでリーグ1位の巨人を下して日本シリーズに阪神が進出、安藤自身、3度目の日本シリーズを体験しました。

その後安藤は16年まで4年連続で50試合に登板する鉄腕ぶりを発揮しましたが、疲労がたたったのか、17年シーズンは後半戦に突入しても1軍登板はゼロの状態です。

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