加地亮について

名前 加地亮
生年月日 1980年1月13日
日本
出身 兵庫県あわじ市
プロフィール 高校時代は、右のアウトサイドのポジションを務める。抜群の攻撃センスが評価され、1997年に日本ユース(U‐18)代表候補となり、同年度国体選抜メンバー。98年Jリーグのセレッソ大阪入り。2000年J2の大分トリニータに期限付き移籍。05年FC東京、06年から14年6月までガンバ大阪に所属。14年6月から同年10月までMLSのクラブ・デポルティボ・チーヴァス・USAに在籍し、15年からファジアーノ岡山在籍(2017年7月現在)。177センチ、75キロ。

黄金世代のひとりとして、U19で大活躍

加地亮がサッカーを始めたのは小学1年生のころでした。もともと足が速かった加地はすぐにサッカーの虜となり、進学してからもサッカーに打ち込みます。そのため、高校は兵庫県内の強豪校である滝川第二高校へ進学。ここで加地は黒田和生監督に出会い、右のサイドアタッカーとして起用されます。この指導が加地のポテンシャルをフルに生かすものになり、加地はメキメキとその才能を開花させていきました。

高校時代に加地は滝川第二高校でインターハイ、高校サッカー選手権大会に出場し、その主力選手として活躍しました。どちらも優勝までは届きませんでしたが、加地自身は柔らかいボールタッチに天性の攻撃センスを見出され、プロからも注目される存在になります。そして加地は高校を卒業した1998年、セレッソ大阪に入団しました。

セレッソ大阪でも1年目から15試合に出場するなどそれなりに活躍を見せていた加地ですが、より輝いていたのは代表戦の時でした。U19の日本代表入りを果たした加地はアジアユースに出場します。この時の加地と同じチームにいたのは小野伸二、稲本潤一らのいわゆる黄金世代に当たる選手たちでした。この豪華な陣容の中でも加地は中心選手として名を連ね、99年にはFIFAワールドユース選手権で日本代表を準優勝に導く活躍を見せました。

しかし、当時所属していたセレッソ大阪ではなかなか試合に出場する機会がありませんでした。そのため加地は出場機会を求めて移籍を志願し、2000年にJ2の大分トリニータへ期限付きの移籍を果たします。この大分トリニータでは2シーズンで70試合以上出場し、02年にはFC東京へ移籍することとなりました。

ジーコに見初められ、代表メンバー不動の存在に

FC東京に完全移籍をした加地亮は、シーズン開始直後はレギュラーに食い込めませんでしたが、夏場以降はレギュラー入りを果たします。ミッドフィルダーの石川直宏と右サイドで好連携を築いて、チームの起爆剤となります。もともとディフェンダーだった加地はシュートを打つ機会に恵まれませんでしたが、10月のコンサドーレ札幌戦で派手なロングシュートを決めて念願のJ1初ゴールを決めました。

2003年、FC東京がナビスコカップで準々決勝で敗れた直後、加地は日本代表選手としてA代表に招集され、チュニジア戦で国際Aマッチ戦初出場を飾ります。加地はサイドバックとして出場し、さらに攻撃性のある果敢なオーバーラップがチームの得点力向上につながると考えられ、当時の日本代表監督ジーコのお気に入りの選手になりました。

以来、加地は日本代表に定着し、04年には中国で開催されたアジアカップに代表選手として出場し見事にチームの優勝に貢献しています。

04年の加地は代表戦だけでなく、Jリーグでも活躍した年でした。チームのナビスコカップの決勝進出に貢献したことはもちろん、その決勝戦ではPK戦までもつれ、加地は最後のキッカーとして見事にシュートを決め、FC東京の優勝を決定づけました。

そしてドイツワールドカップを1年後に控えた05年、加地のポテンシャルはさらに輝きを放ちます。コンフェデレーションカップに出場した際のブラジル戦ではあのカナリア軍団を相手に「幻のゴール」と呼ばれる好プレーを見せたのをはじめ、好守の切り替えを怠らない献身的なプレーで代表チームを支えました。常に泥臭くともチーム優先主義を掲げる加地のプレースタイルはサポーターや関係者の胸を熱くさせるものでもありました。

そしてこの年、ドイツワールドカップ最終予選のイラン戦にて加地は国際Aマッチ初得点を挙げ、日本のグループ1位通過に大きく貢献しました。

負傷により、不完全燃焼のドイツW杯

ドイツワールドカップイヤーとなる06年、加地亮は慣れ親しんだFC東京を離れ、ガンバ大阪へと移籍をします。それは「自身のレベルアップ」のためでした。強豪クラブに身を置くことで自分自身をさらに成長させ、代表戦でも活躍したいという決意を感じさせました。

ワールドカップ本大会に向けて日々プレーをしていた加地ですが、本大会直前、加地に悲劇が襲い掛かります。ドイツとの親善試合に出場した加地は相手チームのバスティアン・シュバインシュタイガーに後方からタックルを受け負傷。これにより、大事なワールドカップ第1戦目の欠場を余儀なくされました。そしてその第1戦で日本代表はオーストラリア代表に敗れてしまいました。

第1戦を欠場した加地は、懸命のリハビリで第2戦に間に合わせ、残り2試合にフル出場を果たします。しかし、ドイツワールドカップでの日本代表は、0勝2敗1分のリーグ最下位で、予選敗退という結果で幕を閉じることとなりました。

ワールドカップ終了後、怪我から本復帰した加地はガンバ大阪で活躍します。それまで3バックで戦っていたガンバ大阪は加地の加入によって4バックとの併用が可能となり、攻撃の幅が広がりました。加地自身も得意の右サイドバックで攻守に貢献。この活躍が認められて、Jリーグベストイレブンを初受賞しました。さらに07年にはナビスコカップ制覇に貢献。自身2度目の栄冠をつかんだのです。

代表引退、アメリカ移籍…37歳にして挑み続ける

ガンバ大阪の中心選手となった加地亮でしたが、自身の故障もあり、日本代表ではうまくレギュラーに定着しませんでした。当然多くの人は加地の代表復帰を望んでいましたが、岡田武史監督に代わって以降、加地の代表招集自体が減り、さらに加地自身も代表戦とクラブでの並行活動は不可能と判断し、08年の5月に加地は代表引退を決断し発表しました。その後の加地はJリーグに専念してプレーをすることとなります。

クラブに専念するこを決めたあと、加地はガンバ大阪の黄金期メンバーとして大活躍します。この年はACL、天皇杯の優勝にも貢献し、クラブワールドカップの全試合に出場しました。

その後もガンバ大阪の中心選手としてプレーした加地ですが、14年にアメリカのメジャーリーグサッカー、チーヴァス・USAへ移籍しました。34歳にして初の海外リーグに参戦しましたが、まもなくチーム解散による退団を余儀なくされました。行き場を失った加地は15年にファジアーノ岡山へ入団。現在37歳になる加地ですが闘志は衰えぬまま、ファジアーノ岡山のJ1昇格という目標を達成するためにプレーを続けています。


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