落合英二について

名前 落合英二
生年月日 1969年7月25日
日本
出身 栃木県下野市
プロフィール 小学4年から父の指導で野球を始め、作新学院高3年の夏、県大会の準決勝で敗れる。日大に進学してからは2年で頭角を現し、150キロの速球を投げる。90年米国グッドウィルゲームズ、カナダの世界アマ野球選手権、アジア大会に出場。3年春の東都リーグ中に右肘を骨折して投手生命が危ぶまれたが、同年秋再起をはたし、4年ドラフト1位で中日に入団を果たす。同年は右ヒジ故障のため二軍戦にも出場できなかった。2年目でプロ初勝利、8年4月対ヤクルト戦に無四球完封で初完投。10年中継ぎに転向し、同年最優秀中継投手賞を受賞。180センチ、76キロ。右投右打

右肘を負傷も、中日スカウトに見初められる

落合英二が野球を始めたのは小学4年生の時、父の指導によるものでした。類まれな素質をもとに落合は成長を遂げ、高校では栃木県内屈指の名門校である作新学院へ入学します。ここでもエース投手として台頭しますが、落合の高校時代、栃木県内には優れた選手が多く、名門作新学院とはいえ、県大会を勝ち進むのは至難の業でした。実際に落合の高校時代の最高記録は高校3年時の夏の県大会ベスト4でした。準決勝で石井琢朗率いる足利工業に敗れて、惜しくも甲子園大会までは届きませんでした。

この時点での落合は無名の存在でしたが、日本大学へ進学してから落合は頭角を現します。1年目を体力づくりに充てたことで、2年生になってから落合の球速は急激に伸びて、最高球速は当時では珍しい150キロオーバーを記録しました。本格派の投手として注目を集めるようになります。90年にはアメリカのグッドウィルゲームズ、カナダの世界アマ野球選手権、そしてアジア大会に出場するなど国際大会にも多数出場を果たします。1年後のドラフト候補として期待される存在になりました。

しかし、肝心のドラフトイヤーの91年に落合は右肘を骨折の怪我を負ってしまいました。投手にとって生命線とも言える右腕の負傷は落合の投手人生を大きく左右することになります。一時は選手生命をも危ぶまれる大ケガだっただけに、当然ながらプロのスカウトたちも落合の獲得を見送るようになります。

しかし、その落合に目をつけていたのは中日ドラゴンズでした。靭帯の損傷等ではなく、骨折なので回復可能と考えた中日スカウトは落合の指名を敢行します。斉藤隆の抽選に外れた後ではありましたが、落合をドラフト1位で指名し、プロ野球選手としての第一歩を踏み出すことになりました。

サファイアを埋める手術を敢行も、先発としては伸び悩む

紆余曲折あったものの、プロ入りを果たした落合英二。しかし、すぐに一軍で投げるわけではなく、まずは大学4年時に故障した肘の手術からスタートしました。骨折した個所を止めるために通常ならばボルトを埋め込むところですが、投手の生命線である肘だけに力の伝達がうまくいくようにと、力が均一に通るようになるサファイアを埋め込む大手術を行います。現在も落合の肘には埋め込まれていますが、このエピソードをキッカケに落合は一部ファンから「サファイア王子」と称されるようになります。

肘の故障が完治した93年、落合は1年遅れでプロデビューを果たします。当時は故障した肘の個所をかばう意味合いもあり、ショートリリーフで1イニング限定という起用法でしたが、3年目の94年から本格的に中継ぎ投手として起用されます。この年中日は巨人と激しい優勝争いを演じますが、落合もこの年に27試合に登板して2勝1敗1セーブという出色の活躍を見せました。

翌95年、落合は先発へ転向します。プロ入り後はリリーフを務めていた落合からしたらスタミナ面が懸念されましたが、大学時代までは先発投手だった経験を生かして落合は先発でも活躍します。14試合の先発を含む30試合に登板するなど、チームの便利屋的な存在になっていきました。

この頃から落合にまつわるエピソードで言われているのが霊感話でした。というのも落合は霊感が強いことでも知られ、ある試合では主砲の大豊泰昭に自分のバットを差し出し「これを使えば打てる」と称してバットを差し出すと、その打席で大豊は本塁打を放ちました。96年には同様のエピソードで同僚の山崎武司のバットを選ぶと、山崎は9年目にして大ブレイク、本塁打王のタイトルまで獲得するようになります。

このようにチームのラッキーボーイ的な活躍を見せた落合ですが、肝心の投手成績は今一つでした。完投能力はあってもその日ごとの投球の出来不出来が激しく、安定しないという弱点がありました。象徴的なのは95年4月の阪神戦、リリーフで上がった際にグレンに投じた初球が打たれるとサヨナラ本塁打となり、1球敗戦投手となりました。

悪い時は悪いなりのピッチングをするのが先発投手の役目ですが、落合にはそれができず、結局先発として登板した95年から97年までの3シーズンともすべて負け越してしまいました。

宮田コーチとの出会いでセットアッパーとして大成

98年、落合英二に転機が訪れます。それは投手コーチに宮田征典が就任したことでした。現役時代は先発からクローザーに回ったことで活躍した経験を持っている宮田の指導は落合にはピタリとハマります。そして宮田も自身の経験をもとに落合の適性を見出し、落合をクローザー、宣銅烈の前で投げるセットアッパーとして起用します。

1イニングのみ勝負で腕を思い切り振って投げるのは落合のポテンシャルをフルに生かすもので、この年の落合は自己最多となる55試合に登板し、4勝5敗5セーブの活躍を見せて最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得します。

中継ぎ投手として大成した落合は翌99年シーズン前、自身の特技である霊感で「外にブルペンのある球場で、星野仙一監督が胴上げされるのが見える」と発言し注目を集めます。中日の優勝を意味する言葉でしたが、その予言通りに中日はこの年絶好調、外にブルペンのある神宮球場でリーグ優勝を決めて星野監督は胴上げされました。

もちろん、その躍進の陰には落合の活躍もあり、前年よりも1試合多い56試合に投げて5勝4敗2セーブを挙げ、セットアッパーとして中日のブルペンを支えました。

以降も落合はセットアッパーとして中日の中継ぎ陣を支える役割を担い、99年には珍しい1球勝利の記録を達成します。史上13人目の快挙でしたが、先述の1球敗戦と合わせて療法達成したのは落合が史上初となりました。

中日の監督はその後、星野→山田久志→落合博満へと変遷を遂げていきましたが、落合の起用法はほとんどブレないままでした。06年に現役を引退するまで15年間、中日一筋で投げ切りました。

韓国で名を上げ、ロッテの投手コーチに就任

現役引退後、落合英二は解説者へと転身しました。そして10年からはかつてのチームメイト、宣銅烈が監督を務める韓国のサムスン・ライオンズの投手コーチに就任しました。落合の手腕はここで発揮され、それまで倒壊状態だった防御率は見る見るうちに向上し、落合在任時の3年間のうち、チームは2回韓国シリーズを制する大活躍を見せました。

しかし、日本に戻ってから落合にコーチ就任の話はなく、またも解説者に戻りましたが、14年のオフに落合にコーチの話がやってきます。オファーを出したのは千葉ロッテマリーンズでした。二つ返事でこのオファーを了承した落合は現在もロッテ投手陣を支えています。

ちなみに落合は17年シーズンより登録名を下の名前の英二に変更したことでも注目を集めています。


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