名前清宮克幸(キヨミヤカツユキ)
生年月日1967年7月17日
日本
出身大阪府大阪市西区
プロフィール大阪・茨田高からラグビーを始め、1年からレギュラー、2年からNo8。3年の時に花園に出場し、高校日本代表主将も務めた。

早大に進み、1986年9月対一橋大戦でデビュー。2年時には東芝府中を下して日本一となり、1990年4年時主将として、学生日本一となる。卒業後、サントリーに入社。フランカーとして活躍。1995年日本選手権優勝。

2001年引退し、早大ラグビー部監督に就任。就任5年間で関東対抗戦は5年連続全勝優勝、日本選手権でも優勝3回、準優勝2回と母校を低迷期から脱出させる。

2006年からはサントリー監督として、優勝こそチップリーグ優勝はなかったものの、2位3回、3位1回と安定した順位をキープ。2007年シーズンのマイクロソフトカップでは優勝。

2011年からヤマハ発動機ジュビロの監督に就任。前年トップリーグ11位だったチームを徐々に復活させ、2014年シーズンの日本選手権で優勝と確かな指導力を見せる。息子は早稲田実業高校の清宮幸太郎。早稲田大学卒

茨田高校時代、花園出場に導き、高校日本代表でも主将就任

清宮克幸は大阪に生まれ、幼少期から身体も大きく、小学生では野球部、中学生ではサッカー部に入りました。それでもエネルギーが有り余り、喧嘩で発散する日々も過ごします。不良グループを率い、髪型や服装でも学校の先生を困らせていました。警察に事情聴取されたこともありましたが、熱心な先生の対応に改心することを決意します。そして、ラグビーを勧められると、大阪でも有名だった茨田高校へ進学しました。

ここで素晴らしい仲間に恵まれ、ラグビーに打ち込んでいきます。同校の吉岡隆監督は自主性を重んじる指導で、練習メニューもキャプテンに考案させていました。そしてすべての面で他に突出していた清宮は、1年生からレギュラーとして起用され、2年になるとオール大阪の代表にも選出されて国体に出場します。3年になると当然のようにキャプテンに就任し、短い時間に効果的な練習を実施して、見事花園の全国大会進出を決めました。シード校として2回戦を圧勝しましたが、3回戦で相模台工に6-11と敗れます。それでも高校日本代表でも主将を務めるなどラグビー界のホープとして名を馳せました。

早稲田大学時代、伝説のチームのNo.8として東芝府中を撃破

高校卒業後は、早稲田大学へ進学して、教員免許取得を目指しながらもラグビーを続けます。当時、弱体化していましたが、入学と同時に、木本建治が2度目の監督に就任し、歴史を変えていきました。初年度こそ優勝を逃しましたが、自身2年時は快挙を成し遂げます。4年の永田隆憲が主将に就任し、清宮克幸がNo.8で副主将、そして1年生トリオの堀越正巳、今泉清、藤掛三男らがレギュラーメンバーに起用されました。そして、伝説といわれた「雪の早明戦」を10-7で勝利し、5年ぶりに関東大学対抗戦を制します。大学選手権でも、京都産業、大阪体育、同志社の関西3チームを撃破し、11年ぶりの日本一を達成しました。さらに続く日本選手権でも勢いが続き、決勝で早大OBの中村賢治が率いる東芝府中(現 東芝ブレイブルーパス)とぶつかります。社会人相手でも22-16で振り切り、16年ぶり4度目の優勝を飾りました。

4年時は主将として、全国大学選手権を再び制します。日本選手権での大番狂わせを狙いましたが、4-58と社会人に強さを見せ付けられました。卒業後は、サントリーに入社して、ラグビー中心選手として長らく活躍します。立候補して就任したキャプテン時代は、一度どん底を味わいましたが、1995年には神戸製鋼の8連覇を阻む社会人大会&日本選手権のダブル優勝、1997年、1998年度は全国社会人大会準優勝に貢献しました。

早大監督に就任すると、低迷から脱し5年間で3度の日本一

2001年、選手生活を引退し、所属はサントリーのままで早稲田大学ラグビー部監督に就任します。しかし、OBが推薦した監督候補者の中から選手たち自らが選ぶという方式のため、一度は就任を拒否されました。しかし、40日かけて、数年間早稲田が勝てなかった理由をしっかりデータ化し、弱点を浮き彫りにしたプレゼンで理解を得ます。そして無事監督に就任すると、社会人との練習を取り入れ、データを意識した勝てるラグビーを推進していくうちに、チームは劇的に変わりました。

数年間、関東大学リーグ対抗戦で低迷していた早稲田大学は、2001年度から5年連続全勝優勝を飾ります。全国大学選手権では1年目に、当時の王者関東学院大学に敗れましたが、2002年度、そして2004年度からの連覇と、5年の間で3度の優勝に2度の準優勝と完全に復活を遂げました。就任5年目の2005年度は、日本選手権で強豪トヨタ自動車ヴェルブリッツを破るという快挙も達成します。その勝利を集大成に、早稲田大学監督を退任しました。

サントリー監督時代、リーグ優勝無しも安定した強さを取り戻す

2006年シーズンからは、サントリーサンゴリアス監督に就任しました。同ラグビー部としては、初のプロ契約監督として挑みます。トップリーグが始まってからの3シーズンは4位、8位、6位と順位が安定していませんでした。清宮克幸は、批判されてもフォワードを前面に押し出して、何よりも勝利にこだわります。するとチームに安定感が戻り、就任後2位、2位、3位、2位と常に上位をキープしました。

その間、トップリーグ1位は、東芝、三洋電機が隔年で奪いましたが、2シーズン目にはマイクロソフトカップで優勝を果たすという大きな結果を残しました。最終年度、日本選手権を集大成とするつもりでしたが、1回戦でNECと引き分けに終わり、抽選で敗退という不完全燃焼で監督を退きました。

低迷期のヤマハ監督に就任すると、4年目に日本選手権で優勝

2011年始め、指導者として定評のあった清宮克幸の去就は注目されます。そして、選んだチームは、トップリーグ降格危機にあったヤマハ発動機ジュビロでした。2010年度に、ヤマハ発動機正社員選手のみで活動する方針を固めたこともあって半数の部員が去り、同年度は過去ワーストの11位に甘んじます。そんな最悪の時期に監督を引き受けるという、どん底からのスタートでした。

サントリーと異なりチーム全体の戦力は低く、まずは身体作りから始めるという長期戦略を掲げます。それでも就任当初からトップを取ることを公言して、自身にプレッシャーをかけました。そして早稲田監督時代の教え子だった五郎丸歩を中心に、1シーズンずつ順位を上げていきます。就任4シーズン目、かつて雑草集団だったメンバーはタフになり、トップリーグで総合3位まで順位を上げました。プレーオフトーナメントを2位で通過し、日本選手権に進出すると、準決勝で東芝ブレイブルーパスを21-9と下し、目標とする日本一まであと1勝に迫ります。奇しくもその相手は、かつて監督として指揮を執っていたサントリーサンゴリアスでした。力をつけたチームは、エース五郎丸を一時、シンビンで欠きながらも15-3で勝利します。就任4年目にして、ついに有限実行し、トップに上り詰めました。

現在は、早稲田実業高校に通う息子・清宮幸太郎の父親として、さらに有名となっていますが、その指導力は衰えていません。一度自信を手にしたヤマハ発動機ジュビロは、簡単に順位を下げず、現在もトップリーグ上位で戦っています。


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