名前福田正博(フクダマサヒロ)
生年月日1966年12月27日
日本
出身神奈川県横浜市緑区
プロフィール相模工大附属高3年の時国体優勝。中大2年の時日本代表に選ばれる。

1989年JSL2部所属の三菱重工(現・浦和レッズ)に入り、JSL2部の得点王となる。スピードを生かした突破が得意。日本代表チームでも右サイドの切り崩しを担当。アジアカップでも活躍し、レギュラーに定着。

1994年4月対ベルマーレ平塚戦で1試合4ゴールのJリーグ新記録を樹立。1995年日本人初の得点王。1996年8月練習で左足首を骨折。1999年チームがJ2に降格。

2001年J1に昇格。2002年、ハンス・オフト新監督の下、再びレギュラーとして活躍するも、同年オフに戦力外通告を受けて現役引退。

2003年、功労選手賞を受賞。2007年、S級ライセンス取得。2008年から浦和レッズコーチ就任(2010年退任。)

Jリーグ通算228試合出場93得点、JSLリーグ通算59試合出場50得点、国際Aマッチ 45試合出場9得点。中央大学卒、176センチ、68キロ

相模工大付属校時代、神奈川県選抜CFとして国体優勝に貢献

福田正博は、1966年神奈川県横浜市で生まれ、幼少の頃から野球と柔道をやっていました。小学5年生時に、家族で藤沢へ引っ越すと転向先の小学校でサッカーに出会います。大庭FCに入ってサッカーを始めると、中学時代には全国中学サッカー大会に出場するほどの実力になりました。そして高校進学には、全国大会出場を目指して、相模工業大学付属高校を選びます。1年からレギュラーを奪い頭角を現しましたが、3年間全国大会出場は叶いませんでした。それでも、3年時には神奈川選抜に選出されて国体へ出場します。そしてセンターフォワードとして6得点をマークし、神奈川県の優勝に大きく貢献しました。

中央大学に進学後もすぐさまレギュラーを奪い、新人王に輝く活躍を見せます。そして2年時には日本B代表に選出されます。しかし代表として試合出場の機会はなく、その後4年時には主将も務めましたが、不本意な成績に終わりました。

ルーキーながらJSL2部で得点王を奪い、1部復帰に貢献

大学卒業を前にして、JSL所属の6チームから勧誘を受けます。当時Jリーグ構想はまだ噂レベルであり、プロ契約できるチームもありましたが、福田正博が選んだのは終身雇用が約束されていた三菱重工でした。そしてドイツ留学の約束も取り付けていましたが、入社後の5月にチームは2部落ちとなり大きく構想が崩れます。1989年、1部への早期復帰を目指して、監督も代わり、海外留学も消えてなくなりました。

しかし、チームのFW原博実が戦線離脱しており、斉藤和夫新監督は開幕から福田をレギュラーとして抜擢します。するとこのチャンスをものにし、出場26試合で36得点と得点王を獲得する活躍を見せて、チームの1部復帰に大きく貢献しました。1部では、執拗なマークに遭って得点力はさがりましたが、鋭いドリブルからたった一人で得点まで持ち込める突破力はチームの大きな武器となります。こうした活躍で日本代表にも選出されるようになっていました。

Jリーグ元年、浦和レッズは最下位に終わり、代表でも力になれず

1990年、三菱自動車にチームが移管され、Jリーグ開幕を前に、浦和市の誘致に応じる形で、浦和レッドダイヤモンズが誕生します。1992年からは、森孝慈新監督の下、3トップの一角に名を連ね、ナビスコカップ5位、天皇杯ベスト4進出と好成績を収め、Jリーグでも大きく期待されました。

しかし、開幕戦を0-1で落とすと、得点力不足で不調から抜け出せません。前半のサントリーシリーズはダントツの最下位に終わり、福田正博も貢献できませんでした。後半のニコスシリーズでも巻き返しができず、不調のまま、日本代表としてW杯アジア最終予選を迎えます。福田は全5戦中、フル出場2試合含めて4試合に出場しました。

しかし、最終のイラク戦では途中出場もゴールは生まれず、引き分け終了のホイッスルをピッチで耳にします。日本のW杯初出場は泡と消えて無念の帰国をしました。そしてその後、ニコスシリーズを継続しますが最下位に沈み、年間順位も当然最下位に終わります。こうしてJリーグ元年は、チームもそして日本代表としても不本意な成績で終わりました。

チームを復調させる活躍でゴールを量産し、日本人初の得点王

巻き返しを図りたい2年目も、1stステージで、3期連続最下位となり、続く2ndステージで一つ順位をあげましたが、総合順位は2年連続最下位に終わります。福田正博も1stステージで1試合4得点を記録するも、ヘルニアを患い、多くの試合には出場できませんでした。しかし、3年目の1995年、これまでの鬱憤を晴らすかのように大活躍します。DFブッフバルトの加入で守備が安定し、福田が50試合出場で32得点とゴールを量産しました。チームも1stステージは3位と躍進し、総合でも4位と一気に上位進出します。福田は1ゴール差でスキラッチをかわし、日本人初の得点王に輝くとともに、初のJリーグベストイレブンに輝きました。

怪我との戦いが続き、最終戦をVゴールで飾るもJ2降格

その後、浦和レッズは比較的安定した成績をキープしますが、福田正博は怪我との戦いが続きます。1996年は開幕直後に左足首を骨折し、わずか4試合の出場に終わりました。翌年は、左足にプレートが埋め込まれたままでも必死にプレーし、29試合の出場で21得点とエースとして存在感を見せます。

1998年、ようやくプレートが除去されましたが今度は肉離れとフル出場できないシーズンが続きました。1999年、1シーズンで監督が2度も代わる等低迷し、最終戦で福田が延長Vゴールを決めましたが、悔しいJ2降格が決まります。それでも、チームに残留し、翌年のJ1昇格を目指しました。

フランチャイズプレイヤー「ミスターレッズ」として現役引退

2000年、圧倒的な攻撃力を武器にJ2で優勝を飾り、1年でJ1復帰を果たします。しかし、福田正博は12試合の出場でわずか2ゴールに終わり、チームに貢献できませんでした。翌年も低迷が続きましたが、2002年、かつての日本代表監督ハンス・オフトが監督に就任すると、一転してレギュラーとして起用されます。まさに背水の陣でシーズンに臨み、本来のストライカーとは異なるポジションでも出場しました。

自身は3得点に終わりましたが、ナビスコカップ準優勝に大きく貢献します。しかし、年齢は36歳となっており、同年オフにクラブから戦力外通告を受けました。他チームでプレーする想像ができないとして、2002年限りで現役引退を表明します。プロ人生すべてをレッズで過ごしたことからも、ミスターレッズと称されました。

現役引退後は、日本サッカー協会のJFAアンバサダーに就任してサッカー普及活動に務めます。そこから長らく解説者生活を続け、2008年からは3年間、浦和レッズでコーチも務めました。2007年にS級ライセンスを取得していることから、古巣の監督就任に対する期待も大きくなっています。


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