佐藤友紀について
名前 | 佐藤友紀 |
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生年月日 | 1979年6月26日 |
国 | 日本 |
出身 | 兵庫県加東市 |
プロフィール | 1997年夏の県大会では1試合19奪三振を記録し、ベスト4に貢献。同年ドラフト2位で西武に入団。183センチ、70キロ、左投左打
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無名高校から現れた左腕投手
佐藤友紀が生まれ育ったのは兵庫県加東市。当時から運動神経はよかった佐藤は野球を始めるとその実力をすぐに開花させていきます。プロ野球選手になった当時、183センチもあった長身の投手でしたが、この頃から大柄な子供で角度のあるストレートを武器にしていました。
そんな佐藤は高校進学時、神戸弘陵高校へ進学。部活動が活発な学校で佐藤が所属した野球部は夏の甲子園に一度、春のセンバツには当時、4回も出場していました。しかし、佐藤が入学した1995年はサッカー部やバレーボール部の方が活発で知られていました。
その高校時代、佐藤は3年生になるとエース投手として台頭。甲子園大会に向けて奮闘します。左腕から繰り出されるストレートと切れのいい変化球で三振を量産していくスタイルの投球は兵庫県内では知られていましたが、プロでは無名の存在。そのため、1~2年生時には全くと言っていいほど注目されていませんでした。
佐藤の高校時代のハイライトとなったのは3年の夏の兵庫県大会でした。この大会中、佐藤の投球は冴え渡り、なんと1試合で19奪三振を奪う快刀乱麻の活躍。しかし、続く試合でチームが敗れたために甲子園出場はならりませんでした。佐藤はプロ球界では無名のままで高校時代を終えてしまいました。
迎えた97年のドラフト会議。この年の目玉はなんといっても慶応大学の高橋由伸と明治大学の川上憲伸、そして高校生では川口知哉、井川慶、能見篤史の高校生左腕三羽烏(能見はプロ入りせず)で同じ左腕の高校生である佐藤は全くの無名の存在でした。兵庫県にフランチャイズを置く阪神タイガース、オリックスブルーウェーブでさえもノーマークの選手でした。
そのため、気楽に構えていたドラフト会議ですが、佐藤はなんとドラフト2位で指名を受けます。指名したチームはなんと西武ライオンズ。この年のパリーグを制したチャンピオンチームでした。
松坂大輔の登場で影が薄くなる
プロ入り1年目の1998年、佐藤友紀は二軍からスタートし、身体づくりから入ります。この年も西武ライオンズは強く、混戦を抜け出してリーグ2連覇を飾る状態だっただけにとても高校卒のルーキーがやすやすと登板できるようなチーム状況ではありませんでした。
しかし、この年のオフ、ドラフト会議で佐藤に最大のライバルともいうべき存在が入団します。それは松坂大輔。横浜高校のエースとして甲子園の春夏制覇に導いた超高校級投手です。
自分よりも1年後にやってきたルーキーに負けるわけにはいかないと奮闘する佐藤ですが、残念ながら松坂はプロの水にもすぐに慣れ、開幕から一軍ローテ入り。1999年にはいきなり16勝を挙げる活躍で最多勝、新人王などのタイトルを獲得。一気に西武のスター選手となっていきました。
その中で佐藤は2001年に登録名を「トモキ」に変更しますが、それ以外は全くと言っていいほど注目されず、苦しいシーズンばかりを送ることに。結局、佐藤は東尾修政権、その後の伊原春樹監督のころも投げることができず、プロ入りから6年が経過していました。
苦過ぎたプロ入り初登板
プロ入りから7年目の2004年、佐藤友紀はようやく一軍の切符をつかみます。チームの台所事情が苦しくなった6月、ついに登板しましたが…待っていたのは苦難の連続でした。
6月20日の北海道日本ハムファイターズ戦でプロ入り初登板を飾った佐藤ですが、内容は2回2失点。その後も出れば打たれるを繰り返し、結局7試合、8イニングを投げて防御率は11.25。この年の西武は伊東勤新監督の下で優勝を果たしますが、日本シリーズなどの重要な局面で、佐藤の登板はありませんでした。
その後佐藤は2005年も二軍暮らしとなり、この年のオフに退団。現役を引退することになりました。