名前長田秀一郎(オサダシュウイチロウ)
生年月日1980年5月6日
日本
出身神奈川県横浜市
プロフィール小学3年から野球を始め、ヤングファイターズでは中堅手。5年から投手に転向し、桂台中3年の時、横浜市栄区の選抜チームで優勝投手を経験。

鎌倉学園高に進学後、加納大祐とともにダブルエースとして活躍。140キロ台の速球を武器に、1997年夏の甲子園西神奈川大会ベスト4に貢献。1998年同西神奈川大会ベスト8。

1999年慶大に進学。2000年には秋季大会、抑えとして明治神宮野球大会優勝に貢献。4年時は東大戦で9者連続三振、21奪三振を記録。大学通算12勝16敗、防御率2.23の成績を残し、2002年西武ライオンズに自由獲得枠で入団。

1年目から中継ぎとして定着し、2年目はチームの日本一に貢献。しかし3年目から極度の不振に陥り、以後2007年を除き、一軍で一桁試合出場が続く。2010年、不調から脱し56試合登板して中継ぎの地位を取り戻す。2012年も53試合に登板して防御率2.53と安定投球を続ける。

2013年、5月に不調に陥るとトレードで横浜に移籍。2014年から中継ぎに定着、2015年には45試合に登板して、キャリアハイの防御率2.06を記録。2016年、6試合の登板に終わり戦力外通告。

トライアウト受験するも獲得球団はなく、2017年からは独立リーグの新潟アルビレックスBCでプレー中。

NPB通算成績は383試合、25勝25敗2S、85ホールド、防御率4.09、416回0/3、307奪三振。鎌倉学園高卒、慶応義塾大学卒、右投右打。178センチ、71キロ

大学時代、9者連続三振を達成するなど大きく頭角を現す

長田秀一郎は、神奈川県横浜市に生まれ、小学3年生から野球を始めます。5年生から投手を務めるようになり、大洋ホエールズの応援のため横浜スタジアムにもよく足を運んでいました。中学時代に大きく飛躍して、鎌倉学園に進学します。2年時には加納大祐との投手二枚看板で県ベスト4と甲子園に最も近づきましたが、3年間縁がありませんでした。

高校卒業時、ドラフトの隠れ目玉として名前が挙がりましたが、慶應義塾大学へ進学します。そして、先発にリリーフにフル回転しました。2年時はチームの抑えとして最優秀防御率に輝き、秋季大会優勝、明治神宮大会優勝に貢献します。エースとなった3年時は秋季ベストナインを獲得し、4年時は東大戦で9者連続三振に1試合21奪三振という偉業を達成しました。世界大学野球選手権日本代表にも選出され、日本の3位入賞にも貢献します。大学4年間の通算成績は、12勝16敗と負け越していたものの、通算290奪三振と制球力のよさから、西武ライオンズの自由獲得枠を勝ち取りました。

西武中継ぎとして大きく貢献し、早くも2年目に日本一を経験

2003年、即戦力ルーキーとして、開幕戦からプロ初登板をはたします。4月早々には初先発というチャンスを与えられましたが、7失点と大きく崩れ黒星を喫しました。その後も先発では結果が出ませんでしたが、中継ぎとして定着します。同年はチーム3位の46試合に登板して、5勝7敗、防御率6.06で終えました。

2年目は、開幕一軍を逃しましたが、一軍に昇格すると前年同様中継ぎとしてチームに貢献します。34試合と前年より登板試合数は減らしましたが、防御率は3.18と大幅に改善させました。同年の西武ライオンズは、シーズン2位でプレーオフに進出します。そして大事な試合でも3試合に登板して無失点に抑え、自身も勝利投手になるなど日本シリーズ進出に貢献しました。自身初の日本シリーズでも3試合に登板しましたが、短いイニングで本塁打を打たれるなど2失点と不本意な成績に終わります。しかし、チームは王手をかけられてから逆転でシリーズを制し、プロ2年目にして日本一を経験しました。

3年目に躓くと、以降スランプから抜け出せない時期が続く

順調にプロ人生をスタートさせた長田秀一郎でしたが、長い不調の時期を過ごします。3年目の2005年、前年同様に中継ぎとしてマウンドに立ちましたが、14イニングで6本塁打と打ち込まれ一軍試合登板は9試合に終わりました。翌年、キャンプから先発投手としての調整を始めましたが、二軍でも3勝7敗と結果が伴わず、一軍出場はさらに4試合に減らします。2007年、再びリリーフ投手として、開幕からチームの貴重な戦力となりました。しかし、6月初頭に一軍登録を抹消されると、その後一度も昇格できません。さらに二軍でも防御率7.71と不本意な成績が続きました。2008年には、わずか1試合の登板に終わり、2009年は4試合に登板し防御率12.46と不調から抜け出せません。その間、二軍ではそこそこの成績でしたが、入団当初の活躍がまったく色褪せてしまいました。

完全復活して、西武勝ちパターンのセットアッパーに定着

プロ8年目の2010年は一年を通して一軍に帯同します。開幕当初は、いわゆる敗戦処理ながら自分の仕事をしっかりこなしていくと、どんどん重要な場面で起用されるようになりました。やがてクローザーであるシコースキーの前を投げる勝ちパターンのセットアッパーに定着し、チーム2位の56試合に登板して5勝3敗17ホールド、防御率3.31と好成績を残します。クライマックスシリーズで敗れはしたものの、長い不調から脱する貴重な働きを見せました。

続く2011年は不調に陥りましたが、2012年、再びセットアッパーとして意地を見せます。5月中旬からの一軍登板でしたが、15試合連続無失点を記録するなど無双振りを発揮しました。7月末に本塁打を浴びて記録は途切れましたが、続く試合から11試合連続無失点と、この間27試合で1失点という脅威の安定感を見せます。同年は、53試合に登板して2勝1敗、チームトップの26ホールドに、キャリアハイの防御率2.53という好成績を収めました。

自身の地元横浜へ移籍が功を奏し、2年連続で好成績を残す

2013年、チームは開幕ダッシュに成功しましたが、長田秀一郎は5月に4試合連続失点するなど首位転落の要因を作ってしまいます。その後一軍登録を抹消されると、7月には渡辺直人とのトレードで横浜ベイスターズへの移籍が決まりました。プロ11年目にして、幼少時代にファンだった球団のユニフォームを着ることになります。同年、初のセ・リーグ参戦でしたが、終盤にはセットアッパーに起用されるなどまずまずの成績を収めました。

移籍2年目からは完全にチームの戦力となります。同年からチーム成績は5位、6位と低迷しましたが、長田秀一郎は2014年に52試合16ホールド、2015年にも45試合10ホールドと貴重な中継ぎとして安定した成績を収めました。2015年はキャリアハイの防御率2.06を残します。同年中にFA権を取得していましたが、行使せずに残留しました。

戦力外通告を受けてNPBから離れるも独立リーグで現役続行

2016年、一転して不調に陥ると、一軍試合出場はわずか6試合に終わり同年オフに戦力外通告を受けます。現役続行にこだわり、12球団トライアウトを受験し結果を残しましたが獲得球団はありませんでした。そこで、独立リーグへの挑戦をスタートさせます。2017年3月に、BCリーグの新潟アルビレックスBCへ入団し、再びNPBで投げることを目指してマウンドにたっています。


VICTORYアスリート名鑑

著者プロフィール VICTORYアスリート名鑑

VICTORYアスリート名鑑編集部のアカウントです。