本田武史について

名前 本田武史
生年月日 1981年3月23日
日本
出身 福島県郡山市
プロフィール 7歳でショートトラックを始め、9歳でフィギュアに転向。世界を目ざし、インストラクターの長久保裕(元札幌五輪ペア代表)の指導を受けるため、福島から仙台に移る。中学3年の1995年、全日本ジュニア選手権で初優勝、同年世界ジュニア選手権2位。NHK杯では4位に入賞。1996年1月全日本選手権で史上初の中学生チャンピオンとなる。1997年1月全日本選手権2連覇。同年全国高校選手権、国体少年男子優勝、世界選手権10位。1998年長野五輪15位。同年4月世界選手権で初めて4回転ジャンプを成功させる(11位)。12月NHK杯2位。11年1月国際フィギュア5位、3月世界選手権6位、11月スケートカナダ銅メダル、12月全日本選手権優勝。同年東北高校から法政大学に進学。13年四大陸選手権2位。オレミワン泉所属。168センチ、48キロ

長久保裕に師事すべく、母と二人で仙台へ

本田武史が生まれ育ったのは福島県郡山市。もともと運動神経は良かったのですが、初めてスケートを始めたのは7歳のころ、兄の影響を受けてのものでした。当初はショートトラックの選手として活動しますが、9歳のころにフィギュアスケートに転向。所属していた郡山スケートクラブでも目立つ存在になっていきました。

そんな本田に転機が訪れたのは1990年。9歳のころでした。この時に所属していた郡山スケートクラブが閉鎖され、練習環境を失った本田でしたが、めげることなく隣県の宮城県にある仙台泉DLLクラブへと移ります。

この仙台泉DLLクラブは当時、札幌オリンピックで長沢琴枝とペアを組んで出場したことでも知られる長久保裕がいました。元オリンピック選手の指導が受けられるということで本田も世界へ挑戦したいという気持ちを強く持つようになります。そして毎週1回、福島県から宮城まで遠征し、長久保の指導を受けますが、より本格的に指導を受けるため、1993年、中学生になるのをキッカケにホンダは母親とともに仙台へ移住。長久保を追っての引っ越しとなり、練習場から徒歩圏内にある学校へと越境入学しました。

史上最年少の全日本選手権チャンピオンに

念願かなって長久保裕の指導をフルに受けられるようになった本田武史。もともと10歳のころからすでに3回転ジャンプができるようになるなど、素質にあふれていた本田は長久保の指導ですぐに頭角を現していきました。

本田が最初に掴んだタイトルは1993-94シーズン、中学1年生の時に出場したトリグラフトロフィー。ノービズクラスで本田は優勝を果たします。翌年も本田の勢いは収まらず、1994-95シーズンには全日本ジュニア選手権で3回転アクセルの大技を成功させ、関係者の度肝を抜きました。

本田は高い技術と抜群のバランス感覚を武器にするスケーターで、公式練習から3回転を何度も飛ぶ選手でした。1995-96シーズンのネーベルホルン杯では公式練習ながら、当時日本人が飛んだことのない4回転ジャンプをラクラク達成。この時は失敗のリスクを考えてプログラムには入れませんでしたが、そのインパクトは出場選手たちからも畏怖の念を抱かれるほど。むろん、この大会でも本田は優勝し、着々とタイトルを積み重ねていきました。

その後、自身初となるシニア大会のNHK杯は4位、全日本ジュニア選手権では優勝。初出場となった世界ジュニア選手権ではロシアのアレクセイ・ヤグディンには届きませんでしたが、それでも堂々の2位に。ここまで活躍した本田はこのシーズン中の全日本選手権で男子シングル選手として史上最年少の優勝を達成。当時14歳、中学3年生のチャンピオンとして話題になりました。

その勢いに乗って、14歳ながら本田は1996年世界選手権に参戦。初めての出場ながら13位と大健闘を見せました。

2度のオリンピックでは惜しくもメダルを逃す

1996年4月、本田武史は東北高校へと進学。スポーツの名門校として知られる高校だけにのちの名スケーターも数多く在籍。本田の一学年上には田村岳斗、一学年下には荒川静香と言ったそうそうたる顔ぶれが並んでいます。

高校生として迎えた1996-97シーズン、この年から本田はISUチャンピオンシリーズに参戦し、3大会に出場します。そして前年に優勝した全日本選手権では敵なしの滑りで軽々と2連覇を達成。2度目の出場となった世界選手権では10位となり、長野オリンピックの男子シングル日本代表の出場枠を確保しました。

オリンピックが間もなくに迫った1997年10月、本田は異例とも言える早い時期から長野オリンピック男子シングル日本代表に内定します。いかに本田へメダルの期待がかかっていたかがこれでよくわかります。しかし、好事魔多し。この年の11月に行われたNHK杯時に、本田は4回転ジャンプの着氷に失敗して右足首を痛めてしまいました。このケガの影響で、全日本選手権を欠場することになりました。

迎えた1998年の長野オリンピック。本田は男子シングルに出場しますが、ショートプログラムでのトリプルアクセルからコンビネーションで転倒、失敗してしまいます。このミスが災いしてなんと18位と大きく後れを取ってしまいました。フリーで巻き返した本田ではありましたが、時すでに遅く、フリーは12位、総合で15位と少々残念な結果に終わりました。

この後に行われた世界選手権、本田は予選競技会では自身初となる4回転トウループに成功しましたがが、ショートプログラム、フリーともにジャンプでミスが出てしまい、順位としては11位どまりでした。そしてこの年の12月から本田は拠点をカナダのダグラス・リーのもとに移します。

1998-99シーズンはNHK杯ではISUグランプリシリーズで初の表彰台となる2位に入るなど復活。3度目の優勝を目指した全日本選手権ではケガのためフリーを棄権しましたが、この年に開催された四大陸選手権では前年の長野オリンピックメダリストらが出場する中、ショートプログラム・フリーともに1位となり優勝します。17歳で初代王者に輝きました。

高校を卒業した本田は法政大学へ進学しました。大学生として迎えた1999-00シーズンはスケートカナダで3位に入ったのを皮切りに、全日本選手権では3年ぶり3度目の優勝を飾りました。さらに2000-01シーズンは全日本選手権で4度目の優勝を飾り、四大陸選手権では2位に入ります。世界選手権では総合5位入賞となり、2002年に開催されるソルトレイクシティオリンピックの男子シングル日本代表の出場枠をゲットしました。

オリンピックが目前に控えた2001-02シーズン。本田はスケートアメリカで2位にはいると、NHK杯で優勝を果たします。日本人男子としては20年ぶりの快挙を成し遂げました。日本人男子として初めて出場したグランプリファイナルは5位でしたが、圧倒的な結果によって、本田はこの時点でソルトレイクシティ五輪の男子シングル代表に内定します。

迎えたソルトレイクシティオリンピック。本田は男子シングルではショートプログラムで4回転トウループ、3回転トウループのコンビネーションジャンプと3回転アクセルと大技を立て続けに成功させます。これでアレクセイ・ヤグディンに次ぐ2位につけた本田はメダルの期待がかかりますが、フリーでは4位に終わり、総合でも4位入賞。あと一歩のところでメダルを逃す惜しい結果となりました。

全日本選手権で自身6度目の優勝を飾るも、故障に勝てず

善戦むなしく、4位に終わったソルトレイクシティオリンピック後、本田武史は長野で開催された世界選手権に出場。予選を3位で通過すると、その後はショートプログラムおよびフリーでも3位となって、総合3位入賞を果たし、日本男子シングル選手としては25年ぶりとなる銅メダルを獲得します。オリンピックから一ヵ月遅れで本田もメダリストの仲間入りを果たしました。

振付師をカート・ブラウニングとニコライ・モロゾフに変えて臨んだ翌2002-03シーズン、本田はグランプリシリーズのスケートカナダでは2種類の4回転ジャンプを取り入れて優勝します。

続くラリック杯は3位、NHK杯では2位で迎えた全日本選手権では5度目の優勝を果たし、さらに冬季アジア大会でも優勝を果たします。四大陸選手権ではフリーで2つの4回転トウループと1つの4回転サルコウを成功させるという圧倒的な技術力で堂々の優勝を飾りました。そして世界選手権は前シーズンに続いて総合3位入賞を果たし銅メダルをゲット。

世界選手権では日本代表男子シングルで2年連続のメダル獲得は史上初の快挙を成し遂げます。女子の村主章枝とともに2年連続で日本人選手が銅メダルを獲得しました。

しかし、これが本田の最後の輝きになりました。その後の本田は故障に泣かされるシーズンが続き、05年の全日本選手権まで優勝から遠ざかり、これが自身最後の優勝に。その後は若手の成長もあって本田の存在感は薄まり、05年に本田は現役引退を表明。翌06年の全日本選手権が現役最後の大会となりました。

現役引退後、プロスケーターに転身した本田は高校の後輩である荒川静香らとともに今もなお、ファンに華麗な滑りを披露し続けています。


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