大菅小百合について

名前 大菅小百合
生年月日 1980年10月27日
日本
出身 北海道標津郡
プロフィール 1998年W杯派遣選考会スピードスケート・ショートトラック500メートルで4位に入賞。同年W杯長野大会500メートルで39秒87の自己ベストを記録。同年インターハイ500メートルで2連覇を達成。99年韓国冬季アジア大会に出場。2000年3月五輪オーバルフィナーレで世界ジュニア新記録をマーク。三協精機所属

ワールドカップ出場で急成長を遂げる

北海道で生まれ育った大菅小百合にとって、ウィンタースポーツは子供のころからなじみのあるスポーツ。中でも大菅が最も才能を発揮したスポーツが3歳のころから始めたスケート。華麗な滑りは大人でもついていくのが難しく、いつしか大菅は誰よりも速く滑りたいという夢を持ち始めました。

スピードスケートを始めた大菅はその夢に向かって邁進し、96年になると大菅は高校進学に当たり、北海道はもちろん、ウィンタースポーツの強豪校である白樺学園へ進学を決意しました。全国各地から集まった優秀な選手たちの中で大菅は懸命な努力を重ね、高校2年生になるとインターハイ500m戦でも優勝を飾るようになりました。そんな大菅が高校時代に脚光を浴びたのは98年、長野で行われるワールドカップ派遣選考会でした。

残念ながらオリンピックには間に合わず、この大会が大菅にとっては国際戦デビューになるのですが、この大会のスピードスケート・ショートトラック500m戦で大菅は決勝に進出して4位に入賞。これでワールドカップ出場の切符を掴むと、本番ではショートトラック500mで39秒87の自己ベストを記録し、着実に成長を遂げていきました。

そして大会終了後に行われたインターハイでも500mで優勝して前年に次いで連覇を達成。さらに高校卒業を間近に控えた99年には韓国で行われた冬季アジア大会に出場するなど、高校生ながら世界を股にかけて活躍していきました。

ソルトレイクシティ五輪後に自転車競技でまさかの銀メダル

高校を卒業した99年、大菅小百合はスピードスケート部があった会社、三協精機製作所(現:日本電産サンキョー)へ入社。実業団選手として競技を続けていきます。

大菅はこの頃から冬場はスピードスケートに集中し、夏は自転車競技でトレーニングを積んでいきます。というのもウィンタースポーツの選手は夏場に陸上競技など、別のスポーツをして体力を養うのが普通のこと。中でも有酸素運動で体力を鍛えられる自転車はスピードスケート選手にとっては比較的ポピュラーなものでした。

夏のトレーニングの成果もあり、大菅の成績は実業団選手になってからも好調で、02年に行われるソルトレイクシティオリンピックにスピードスケートの選手として出場が決まり、自身初となるオリンピックの切符を掴みました。この大会での大菅は残念ながらメダルには手が届きませんでしたが、12位入賞という成績を残し、その実力を世界に示しました。

そしてこの年、大菅は新たな挑戦として別の競技も始めます。それは夏のトレーニングに行っていた自転車競技。トラックレースでのタイムが本職ばりに速かったことで大菅は自転車選手としても注目されるようになり、この年に釜山で行われたアジア大会の500mに出場しました。この大会中大菅は当時の世界記録保持者の江永華に次いでの2位。スケートのトレーニングの一環で行っていた自転車でまさかの好記録を叩き出しました。これを機に大菅は冬はスピードスケート、夏は自転車という二足の草鞋を履くことになりました。

自転車競技で夏のアテネ五輪に出場

まさかの二刀流選手として活動していくことになった大菅小百合。スケートとは異なり、自転車は毎年夏に大会に出場し、03年にはシドニーで行われたワールドカップにも出場し、7位に食い込みました。

そして、その後に行われた世界自転車選手権B大会に出場した際にはなんと優勝。スケートよりも先に金メダリストになりました。返す刀で大菅は続く全日本自転車選手権で優勝を飾り、本職顔負けの実績を残していきました。

そしてこの活躍を見たオリンピック選考委員会から、大菅を自転車競技の選手として招聘。なんと04年に行われた夏季オリンピック、アテネオリンピックにも出場することになりました。

迎えた04年。大菅は冬場はスケート選手として活動し、ワールドカップ長野大会で500mに出場して優勝、そして03-04シーズンワールドカップ総合で100mにおいて1位に輝きました。

そして夏が来ると、いよいよアテネオリンピック。大菅は500mタイムトライアルに出場し、10位に入賞。この時に出したタイムは35秒045と当時の日本記録を樹立。メダルこそ取れなかったものの、そのマルチな才能に誰もが驚きを隠せませんでした。

オリンピック終了後、大菅は05年のワールドカップソルトレイクシティ大会に500mの選手として出場して3位に。抜群の実績を残した大菅はもちろん、翌年のトリノオリンピックにも選出され、3季連続でオリンピック出場。それも冬→夏→冬という珍しいケースでした。

スタートミスが響き、バンクーバー五輪を逃す

冬→夏→冬という3大会連続でオリンピックに出場した大菅小百合。目指すは4年後のバンクーバーオリンピックということで、トリノオリンピック終了後に大菅は今までとは違う体制でのプレーを望み、サンキョーを退社。新たにダイワハウスがスポンサーについて新体制で臨むことになりました。

ダイワハウス時代の大菅は07年に当時の女子500mの新記録となる37秒51を記録するなど絶好調。誰もが10年のバンクーバーオリンピックへの出場を信じて疑いませんでしたが、肝心の09-10シーズン、大菅はまさかの絶不調に陥ります。

もともと大菅はスタート時のピストル音の反応がイマイチで、抜群のダッシュ力でカバーするタイプの選手でした。しかし、さらに反応が悪くなってしまったことでロケットスタートが切れなくなり、次第に成績も下降。最後の年はどの大会でも一けた順位に入ることすらなく、バンクーバーオリンピックの切符を逃しました。

これで気持ちの糸が切れたか、11年に大菅は現役を引退。3歳から始めたスケート人生にピリオドを打ちました。

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