堀井学について

名前 堀井学
生年月日 1972年2月19日
日本
出身 北海道室蘭市
プロフィール 室蘭白鳥小学3年からスケートを始め、帯広白樺高2、3年のインターハイ500mを連覇。 1991年専大に進学。93年のW杯ハーメル大会500mで36秒09の日本新をマーク。1000mは1分14秒38。94年日本学生氷上競技選手権大会500mで3連覇、1000mでも優勝。同年リレハンメル五輪では500mで銅メダルを獲得、W杯総合2位。同年4月新王子製紙(現・王子製紙)入り。95〜96年W杯カルガリー大会1000mで史上初の1分11秒台に突入する1分11秒67の世界新をマーク。500mでも勝ち、総合優勝を果たす。96年11月アジア選手権、12月真駒内選抜において500m、1000mで連続2冠を制覇。同月全日本スプリントで初の総合1位。96〜97年W杯1000mで初、500mで2度目の総合優勝を果たす。97年世界スプリント選手権500m、1000m優勝、同年世界種目別スケート500m優勝。同年W杯選考会500mで日本新の36秒29をマーク、1000mでも優勝。97〜98年W杯カルガリー大会1000mで1分10秒63の世界新をマーク。98年長野五輪500mで13位、1000mで17位。99年5月王子製紙を退社、6月PJMジャパンに入社。同年10月全日本距離別選手権1000m優勝、500mでは自己初の35秒台をマークし2位。2000年12月真駒内選抜500mで4年ぶりに優勝。2001年1月W杯ヘルシンキ大会500mで3シーズンぶりのW杯優勝を果たす。同年8月サマークラシック国際500m優勝。W杯通算22勝。179センチ、77キロ

専修大学時代に日本新記録を樹立!

堀井学がスケートを始めたのは小学3年生のころでした。北海道室蘭市で生まれ育ったため、堀井はもともとスケートやウィンタースポーツをする土壌が備わっていましたが、それにしても堀井のスケートのセンスは一流でした。あっという間に上達していき、高校ではスピードスケートに打ち込むため、北海道で最もスピードスケートに力を入れている名門校、白樺学園へと進学します。

白樺学園へ進学後、スケートに打ち込んでいった堀井が表舞台に立ったのは高校2年生のころに行われたインターハイでした。この大会の男子500mで優勝した堀井は3年生になった90年にも優勝し、連覇を達成します。

堀井のスケートの実力はすでに大学内でも知られていました。進学する際には大学のスケート練習の環境が決め手となり、91年に堀井は専修大学へ進学します。

大学進学後、堀井は練習に打ち込み、92年には日本学生氷上競技選手権大会で500mで優勝します。ここから堀井は頭角を現していき、93年のワールドカップ・ハーメル大会で500mに出場した堀井は36秒09の日本新記録を樹立して優勝を飾ります。さらに日本学生氷上競技選手権大会で連覇。翌年のオリンピックでの活躍を期待されるようになりました。

リメハンメル五輪で銅メダル獲得!

リメハンメルオリンピックが開催される94年、堀井学は絶好調でした。これまで2連覇中だった日本学生氷上競技選手権大会では500mで優勝して軽々と3連覇を達成すると、1000mにも出場して2冠達成。万全の状態でリメハンメルオリンピックの代表選手に選出されると、500mに出場しました。

すると世界の強豪選手たちの中でも堀井の実力は群を抜いていて、なんと決勝戦へ進出。ここで3位に入った堀井は見事に銅メダリストになりました。スピードスケートの選手としては男子唯一のメダルを獲得しました。この勢いのまま出場したワールドカップでも総合2位に入り、その実力を満天下に示しました。

大学を卒業した後、堀井は王子製紙(現新王子製紙)へ入社。実業団選手として競技を続けていくことになりました。95-96シーズンはカルガリーで行われたワールドカップに出場すると、1000mで男子としては初めて1分12秒台の壁を破る1分11秒67という世界記録をマークして優勝。さらに500mでも優勝して総合優勝を果たしました。

スラップスケートに悩まされた長野五輪

リメハンメルオリンピック以降、大活躍が続く堀井学。96-97シーズンもその傾向は続き、11月のアジア選手権で500mと1000mの2冠を達成すると、12月の真駒内選抜でもこの2冠を獲得しました。そして全日本スプリントでも活躍した堀井は初となる総合1位に輝きました。

続くワールドカップでも1000mで自身初、そして500mでは自身2度目の総合優勝を飾り、大活躍しました。そして世界スプリント選手権でも500m、1000mで優勝とまさに記録ラッシュ。この後の世界種目別スケート500m、ワールドカップ選考会500mもともに優勝し、ワールドカップ選考会では日本新記録となる36秒29をマークしました。さらに1000mでも優勝を飾り、まさに絶好調。カルガリーで行われたワールドカップでも1000mで1分10秒63の世界新をマークしました。

これらの成績から堀井は長野オリンピックでのメダルも期待されるようになりました。しかし、唯一の問題となったのがこの長野オリンピックから採用されたフラップスケート。通常のスケート靴とは異なり、かかと側のブレードが外れるというシステムですが、堀井はこのスケート靴への対応に苦慮しました。それまでの様な滑りができなくなっていきました。

そうして迎えた長野オリンピック。堀井は当初の不安通りにフラップスケートの対応に苦労した結果、まさかの13位に大敗。そして雪辱を期した1000mではさらに順位を落とす17位で終えてしまいました。

翌99年、堀井は環境を変えるため、王子製紙を退社。6月にPJMジャパンに入社。10月に全日本距離別選手権に出場すると1000mで優勝、500mでは自己初の35秒台をマークして2位に入って復活ののろしを上げます。

そして2000年、12月に行われた真駒内選抜に500m戦に出場し、4年ぶりに優勝。完全復活を果たしました。

ソルトレイクシティ五輪で現役を引退

00-01シーズン、1月に堀井学はヘルシンキで行われたワールドカップに出場。復活の勢いのまま500mに出場した堀井は優勝。実に3シーズンぶりのワールドカップ優勝となりました。をさらにこの年は8月に行われたサマークラシック国際でも500mに出場して優勝を飾りました。

しかし、結果的にこれが堀井にとって最後の輝きとなりました。その後の堀井はソルトレイクシティオリンピックへの出場を目指しましたが、やはりスラップスケートへの対応に苦慮します。出場こそ果たしますが、500m、1000mでは引き続き大敗。そしてこのオリンピックを最後に引退を表明します。


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