ワン・メン(王濛)について
名前 | ワン・メン(王濛) |
---|---|
生年月日 | 1985年4月10日 |
国 | 中国 |
出身 | 黒龍江省七台河市 |
プロフィール | 中国でスケートが盛んな黒龍江省の七台河生まれ。1996年ハルビン冬季アジア大会でスケート選手を見て競技を始める。
2003年青森冬季アジア大会ショートトラック女子500メートル2位、世界選手権3000メートルリレーで金メダル、団体で銀メダル。 2004年世界選手権は500メートルで金メダル、1500メートル、3000メートルリレー、団体で銀メダルを獲得し、総合2位。 2004〜2005年シーズンW杯総合優勝。2005年世界選手権は500メートル、3000メートルリレー、団体で銀メダル、1000メートルと1500メートルで銅メダル。 2006年20歳で出場したトリノ五輪は500メートル金メダル、1000メートル銀メダル、1500メートル銅メダルと3つのメダルを獲得。世界選手権は500メートルと3000メートルリレーで2冠、1000メートル、1500メートル、3000メートルで銀メダルを獲得し、総合2位。 2007〜2008年シーズンW杯総合優勝。2008年世界選手権は500メートル、1000メートル、1500メートル、団体で4冠、3000メートルリレーで銅メダルを獲得し、総合優勝。 2008〜2009年シーズンW杯総合優勝。2009年世界選手権は500メートル、1000メートル、3000メートルリレー、団体で4冠を達成、2年連続総合優勝を果たす。 2010年バンクーバー五輪は500メートル連覇、1000メートル、3000メートルリレーも制し、3冠に輝いた。世界選手権は500メートルと1000メートルで2冠、総合2位。 2011年酒に酔って監督を殴り、活動停止と謹慎処分を受ける。 2013年世界選手権は500メートル、1000メートル、3000メートルリレーで3冠を達成し、4年ぶり3度目の総合優勝を果たした。167センチ、60キロ。 |
10代のころからナショナルチームで大活躍
ワン・メン(王濛)が生まれ育ったのは中国の黒龍江省。氷の街と呼ばれるハルビンからも近く、中国の中では屈指のスケートが盛んな街でした。そんな街で生まれたワンがスケートの世界に入っていったのは極めて普通のこと。実際、ワンがスケートを始めるキッカケになったのは96年にハルビンで行われた冬季アジア大会でスケート選手を見たことでした。
当時9歳だったワンはスケートを始めるとすぐに頭角を現していき、01年にナショナルチームへと入ります。そんな最初に彼女が表舞台に立ったのは18歳になった03年、青森で行われた冬季アジア大会ショートトラックでした。ここで女子500mに出場したワンは2位に入ると、続いて世界選手権の3000mリレーに出場して金メダルを獲得。さらに団体で銀メダルを取り、18歳にして早くもメダリストの仲間入りを果たしました。
翌04年は世界選手権に出所すると500mで金メダルを取り、1500m、3000mリレー、団体で銀メダルを獲得して総合2位にランクイン。この目覚ましい活躍があって、04-05年シーズンはワールドカップ総合優勝を果たしました。
さらに05年には世界選手権に3年連続で出場。金メダルこそ取り逃しましたが、それでもワンは500m、3000mリレー、団体で銀メダル、1000mと1500mで銅メダルを獲得するなど、数々の実績で知られるようになりました。
20歳にしてトリノ五輪金メダリストに
スピードスケート界でワン・メン(王濛)の存在は年々注目されていくようになりました。そして06年と言えば、トリノオリンピック開催年。20歳になるワンは当然中国代表として選出され、オリンピックのメダル獲得に期待がもたれました。
そして迎えた06年2月のトリノオリンピック。ワンは女子500m、1000m、そして1500mと個人種目3つに出場し、500mで金メダル、1000mで銀メダル、そして1500mで銅メダルとなんと3種目で3つのメダルを取るという快挙を成し遂げます。この大会後に行われた世界選手権でもワンの強さは変わらず、500mと3000mリレーで金メダルを獲得して二冠達成。リレーでの金メダルは自身初となりました。さらにこの大会では1000m、1500m、3000mで銀メダルを取るという無敵振りで総合2位に入るなど、その実力を満天下に示しました。
オリンピックを終えた翌07-08シーズン、ワンはこのシーズンのワールドカップで総合優勝を飾ります。その内訳となった世界選手権では500m、1000m、1500mと団体で金メダルを取ってまさかの4冠達成。3000mで銅メダルをとって前回逃した総合優勝を果たします。
誰がどう見ても無敵の女王となったワンですが、続く08-09シーズンもその実力が衰えることはなく、ワールドカップでまたも総合優勝。さらに世界選手権ではまたも先述の4冠を達成して見事に総合優勝。その実力の高さから24歳で迎えるバンクーバーオリンピックの活躍も約束されたようなものでした。
バンクーバー五輪で三冠も…思わぬトラブルが
バンクーバーオリンピックのメダル最有力と呼ばれたワン・メン(王濛)。トリノオリンピック当時は20歳の若者でしたが、24歳で迎えるこの大会はもう王者としての風格すら漂っていました。
迎えたバンクーバーオリンピック。ワンは全大会同様に個人種目では500m、1000mに出場し、さらに団体競技として3000mリレーにも出場しますが、その結果はなんと3つの種目で見事に金メダルを取るという3冠達成。その偉業に誰もが驚かされ、団体戦では「ワンがいれば負けない」とまで言われました。そしてオリンピック後に迎えた世界選手権では500mと1000mを制して二冠を取り、総合2位に入ります。
順風満帆だったワンのスケート生活ですが、それが暗転したのが11年。すべてはある酒席でした。もともと酒癖があまり良くなかったワンは当時のナショナルチームの監督ともたびたび衝突していました。それがお酒が入ったことでヒートアップ。なんと、監督を殴打するという事件を起こしてしまいました。
ワンのこの不遜な態度に激怒したナショナルチームはワンをチームから追放するという厳しい措置を取ります。当然ワンの活動キャリアに支障が出るもので、ワン自身もこの件を深く反省し、謹慎処分を受け入れることになりました。
13年世界選手権で復活の総合優勝
順風満帆だったキャリアを自らのトラブルでフイにしたワン・メン(王濛)。そのブランクは2年にも及び、ようやくスケートファンの前にワンが姿を見せたのは13年の世界選手権。長きにわたっての謹慎生活によるブランクが心配されましたが、ワンはこの大会で500m、1000m、そして3000mリレーに出場。この大会に自らの進退をかけていたと思われますが、ワンは華麗に復活。この3種目すべてで金メダルを取り、なんと4年ぶり、3回目となる総合優勝を果たしました。
かつてのエースが復活し、またも中国に追い風が吹くかと思われたソチオリンピック。しかし、このオリンピックの中国代表にワンの名前はありませんでした。
というのも、ワンはこの大会前に足首の負傷と言うアクシデントに見舞われ、回復が遅れていたというのが真相。3大会連続のオリンピック出場こそなりませんでしたが、ワンの実力は今もなお変わらず。18年の平昌オリンピックを虎視眈々と狙っています。