スベトラーナ・ジュロワについて
名前 | スベトラーナ・ジュロワ |
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生年月日 | 1972年1月7日 |
国 | ソ連(現ロシア) |
出身 | ソ連ロシア共和国キロフスク |
プロフィール | 1994年リレハンメル五輪スピードスケート女子500メートル7位、1000メートル24位タイ。
’96年世界スプリント選手権500メートルで金メダル。 ’98年長野五輪は500メートル9位、1000メートル12位。世界スプリント選手権500メートルで銀メダル。 ’99年、2000年世界スプリント選手権500メートルで3大会連続の銀メダル、2001年は銅メダル。 2002年ソルトレークシティ五輪では500メートル7位、1000メートル11位。2003年テニスコーチの夫との間に一児を得、2005年シーズン競技に復帰。2006年世界スプリント選手権で総合優勝。 34歳で4度目の五輪出場となったトリノ五輪では、500メートルで金メダルを獲得した。1000メートルは7位。その後、引退。 |
リメハンメル五輪入賞で一躍注目選手に
スベトラーナ・ジュロワが生まれたのは1972年。まだロシアがソ連と呼ばれているころでした。炭鉱の街として知られるキロフスクですが、厳しい寒さが続くロシアらしい機構の街で、冬場の寒さはまさに過酷でした。そのためウインタースポーツが盛ん。そんな街に生まれ育ったジュロワも当然のようにウインタースポーツに熱中しました。
中でも彼女が最も熱を挙げたのはスケート。誰よりも速く滑れたジュロワは成長とともにナショナルチームに選出されるようになり、スピードスケートで世界のあらゆる大会に出場するようになりました。
ジュロワが初めて世界の舞台に立ったのは94年のリメハンメルオリンピック。22歳で出場したジュロワはスピードスケート女子500mに出場していきなり7位に入賞。残念ながらメダルにこそ届きませんでしたが、初出場となったオリンピックでこれだけの滑りを見せたことで将来が嘱望されました。
ちなみにこの大会、ジュロワは1000mにも出場しましたが、こちらは24位に終わります。500mと1000mとでは適性の違いがあることが改めてわかります。
世界スプリント選手権で大活躍も、長野五輪は失速
22歳にしてオリンピック入賞を果たしたスベトラーナ・ジュロワ。若き実力者の登場にロシアのスポーツ関係者は大いに喜び、あらゆる国際大会でのジュロワの活躍が期待されました。ジュロワもまたその期待に応えるかのようにあらゆる大会に出場しますが、残念ながら94-95シーズンは目覚ましい活躍がなく、次にジュロワが注目されたのはリメハンメルオリンピックから2年後の96年まで待たねばなりませんでした。
その96年に行われたのは世界スプリント選手権。ジュロワはこの大会で女子500mに出所すると他を寄せ付けないスケートを見せて連戦連勝。ついに決勝にまで進出します。メダルがかかるこの舞台でもジュロワは動揺することなくいつものスケートを見せて、結果はなんと優勝。見事に自身初のメダルとして金メダルを獲得しました。
期待された若きスター候補の復活にロシアのスケート関係者は大いに沸き、2年後の長野オリンピックでのメダル獲得が期待されました。長野オリンピック開催時期になるとジュロワは26歳。スケート選手としては脂が乗り切った時期に当たるため、まさにメダル奪取のチャンスと言っても過言ではないでしょう。ちなみに97年の世界スプリント選手権でも500mで銀メダルを奪取しています。
そんな長野オリンピック。ジュロワはメダル候補として期待されましたが、得意の女子500mでは9位。そして1000mでは同門のマリアンヌ・てぃめるが金メダルに輝く中で失速して12位という前回よりも順位を落とす結果に。当時のジュロワはカナダのカトリオナ・ルメイ・ドーンを苦手とし、また地元開催で燃えていた岡崎朋美らの後塵を拝する形で終わりました。
残念な結果に終わった長野オリンピックの憂さを晴らすがごとく、その後に出場した世界スプリントでは500mで銀メダルを獲得。「オリンピックには縁がない選手なのか」と言いう声がこのころからジュロワに付きまとうようになりました。
結婚&出産で競技活動を中断
オリンピックでは苦戦するものの、スベトラーナ・ジュロワは世界スプリント選手権では無類の強さを発揮。99年も世界スプリントに出場するとここでも銀メダルとなんと3年連続で銀メダルを獲得。01年は惜しくも銅メダルに終わりましたが、96年からメダルを継続して獲得するという偉業を成し遂げます。
02年は自身3回目となるオリンピック、ソルトレイクシティオリンピックに出場。この年で30歳になったジュロワにとっては最後のオリンピックとなる可能性が高く、ジュロワ自身も高いモチベーションで臨みましたが、500mは7位、1000mは11位に終わりメダルには届かずにいました。
そして翌03年、ジュロワは結婚。間もなく一児を得ることになり、競技から離れることに。これで必然的にスケートから距離を置くことになり、必然的に引退するかと誰もが思っていました。
競技復帰。トリノ五輪で金メダル
03年に結婚し、すぐに懐妊となったスベトラーナ・ジュロワが競技から離れて2年後の05年。ジュロワは突如として競技復帰を決断。ママとして戻ってきました。ブランクが心配されましたが、以前と同じように…いや、以前よりもさらに凄みを増したスケートが見られるようになり、06年の世界スプリント選手権では優勝を果たし、復活をアピールします。
そして34歳になった06年、ジュロワは世界スプリント選手権での活躍をもとにトリノオリンピックへの出場権を得ます。これまで3度出場したオリンピックでの成績は500mの7位が最高成績で、しかも一度出産を経験した選手。選手としてはピークを優に過ぎた34歳での出場でメダルを望むのは酷というものでしたが、ジュロワはそんな下馬評を覆して、なんと500mで優勝。念願のオリンピックメダルをなんと金メダルで獲得します。
これ以上の有終の美はないとして、この大会終了後、ジュロワは現役を引退。間もなく政治家に転身し、その活動を続けています。