名前 | 米田哲也(ヨネダテツヤ) |
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生年月日 | 1938年3月3日 |
国 | 日本 |
出身 | 鳥取県境市 |
プロフィール | 中学時代は、陸上走り高跳びの選手。境高校時代、本格的に野球を始め、当初の捕手から投手に転向。
3年春に阪急と契約も、その後阪神との二重契約が発覚し、コミッショナー裁定で阪急に決定し入団。1年目から一軍で9勝をマーク。2年目には21勝をあげてエースとなり、以後1974年まで18年連続2ケタ勝利を続ける。 1967年チームの初優勝に貢献し、以降3連覇、1971年から2連覇するなど黄金時代の中心選手として活躍。この間1968年に29勝13敗でMVPを獲得した他、1966年に最多勝、1973年に防御率1位を獲得。 1975年シーズン途中阪神に移り、1977年近鉄を経て、同年引退。1985年阪神投手コーチ、1991年オリックス投手コーチ、1995年近鉄コーチに就任。2000年殿堂入り。 通算成績は949試合、350勝285敗2S、防御率2.91、5,130回0/3、3,388奪三振。最多勝1回、最優秀防御率1回、最多奪三振1回、MVP1回。境高卒、右投右打、180cm、87kg |
二重契約問題に発展するが、阪急ブレーブスへの入団が決まる
米田哲也は、鳥取県境港市に生まれ、おいしい魚を毎日食べて強い身体を手に入れます。さらに小学生低学年から弓ヶ浜の往復10キロの走り込みで、足腰も強靭となりました。中学に進学すると、陸上を始め走り高跳びの選手となります。そして、境高校に入学して捕手として野球を始めましたが、当時の監督によって投手転向を言い渡されました。1年秋から早くも主力投手となると、様々な変化球を修得します。
社会人相手に快投を演じ、初めてプロ野球を目の当たりにしても、逆に自分でも通用するのではと自信を抱きました。そして高校3年生の1956年春に阪急ブレーブスと契約します。しかしその後も、境高校の選手として試合に出場し続けてしまい、阪神タイガースと二重契約するという事態が起こりました。その後提訴となり、コミッショナー裁定に至るという大きな事態につながります。そして当初契約していた阪急への入団が正式に決まりました。
1年目から投打に活躍し、豪腕ヨネカジコンビで低迷阪急を牽引
18歳の高卒ルーキーは、1年目から驚きの活躍を見せます。自身2戦目に初先発の機会を与えられると初勝利を見事完投で飾りました。しかも、キャンプから打者転向すら提案されるほど打撃も抜群で、初勝利した試合でも満塁本塁打を放つという現在でもプロ野球史上唯一の記録を持っています。そして先発に中継ぎにフル回転し、51試合に登板して9勝(4完封)と二桁勝利にわずか1勝届きませんでしたが大活躍しました。
2年目には21勝、防御率1.86と大エース級の働きを見せます。3年目には、2016年現在でもパ・リーグ記録のシーズン11完封で23勝という偉業も達成しました。以後、米田哲也は無尽蔵なスタミナを誇り、毎年50試合近くに登板し、当たり前のように二桁勝利を挙げていきます。プロ2年目の1957年から実に19年連続二桁勝利という歴代1位の記録を樹立しました。2年先輩の梶本隆夫と「ヨネカジコンビ」を形成し、毎年二人して二桁勝利を挙げてチームを牽引します。しかし、当時の阪急は下位を低迷しており、一度も優勝経験がありませんでした。
ガソリンタンクの異名を持ち、阪急初優勝から黄金時代を形成
あまりにもスタミナぶりに、「ガソリンタンク」と呼ばれ、ホームランバッターとして覚醒前の王貞治とのトレード話すら持ち上がりました。しかし、それを拒否して阪急で投げ続けると、ついにチームに歓喜の瞬間が近づきます。1963年に、西本幸雄が監督に就任すると阪急は勝てるチームへと変わり始めます。就任5年目の1967年、米田哲也、梶本隆夫、足立光宏の3人で53勝をマークして、ついに球団創設初優勝を実現しました。
投打がかみ合ったチームは、そこから第1期黄金時代を築き上げます。1967年からリーグ3連覇を飾り、1970年は4位でしたが、翌年から連覇と、6年間で5度の優勝を飾りました。この間、米田はもちろん怪我などで離脱することなく投げ続け、1968年にはキャリアハイの29勝でMVP、1971年には史上5人目の通算300勝も達成しました。
阪神、近鉄へ移籍し、通算350勝&登板数記録を達成して引退
1971年あたりから、先発投手一本となり投球回数が200イニングを超えることはなくなりましたが、1973年には初の最優秀防御率のタイトルを奪い、最多勝(1966年)、最多奪三振(1962年)とあわせて投手タイトル部門すべてのタイトルホルダーとなります。
1975年、出場機会が大きく激減すると、自ら移籍を志願して入団当時に実現しなかった阪神への途中入団が決まりました。同年は何とか二桁勝利を達成しましたが、翌年は2勝に終わります。すでに年齢から来る衰えも顕著となっていましたが、かつての恩師・西本幸雄から声をかけられて、近鉄への入団が決まりました。
そして、同年12試合に登板して、金田正一の持っていた通算登板数記録を塗り替えます。さらに、チームが一丸となって、米田に勝利をつけて歴代2位の通算350勝を達成しました。奇しくも、その達成試合の相手は古巣の阪急であり、試合後に両チームから胴上げされます。そして1977年限りで長い現役生活にピリオドを打ちました。
現代野球では、ほとんどの記録がアンタッチャブルレコード
当時日本記録の949試合登板、626試合先発という米田哲也の大記録を作ったのは、まさに怪我をしない身体にスタミナが挙げられます。そして、米田式食事管理法とも呼ばれていた独自の食事法も大いに貢献しています。登板日にあわせて食事ローテーションを作っており、登板した日には何も食べずに水分補給だけして睡眠をとり、そこから徐々に食事量を増やして登板前日にボリューム満点の食事をとっていました。先発予定日にあわせて、夫人が準備するため、不明な場合には西本幸雄監督に直接確認するという徹底ぶりです。
こうしてプロ22年の選手生活を故障知らずで過ごし、数多くの大記録を樹立しています。プロ野球記録だけでも、通算626試合先発登板、通算4561被安打、通算120故意四球、通算1940失点、通算1659自責点、19年連続二桁勝利と6つが挙げられ、パ・リーグ記録だと、通算340勝280敗の勝敗数や投球回、奪三振数など13個とまさに宝庫です。2017年、岩瀬仁紀(中日)が通算登板数で米田の記録を超えました。しかし先発1試合の岩瀬と、先発626試合の米田ではとても比較にならず、投球回数でいえば米田が約5倍以上投げているという現実です。
現役引退後は、解説者生活や、古巣球団(近鉄バファローズ、阪神タイガース、オリックス・ブルーウェーブ)などのコーチも歴任しましたが1995年を最後にユニフォームは着ていません。2000年、選手時代の功績が評価されて野球殿堂入りが決定しました。