名前野村克則(ノムラカツノリ)
生年月日1973年7月23日
日本
出身東京都
プロフィール堀越高校で野球部主将を務め、1991年の西東京大会でベスト4入り。1992年明治大学に進み、同年の六大学新人戦で対立大戦に4番ファーストでデビュー。のち捕手に転向。

1996年ドラフト3位で父・克也が監督(当時)を務めるヤクルトに入団。登録名をカツノリとする。1999年トレードで阪神に移籍。2001年、2本のサヨナラ安打を放つ。2003年一軍出場ゼロに終わる。

2004年金銭トレードで巨人に移籍。しかしわずか3試合出場に終わり戦力外通告。コーチ打診を断り、トライアウト受験し楽天移籍が決定。2006年、キャリアハイの56試合に出場も自身2度目の戦力外通告。同年現役引退。

その後も球団に残りバッテリーコーチなどを歴任。2010年からは、巨人の二軍コーチに就任。さらに2014年からはヤクルトコーチに就任。

通算成績は222試合、356打数66安打、4本塁打、17打点、1盗塁、打率.185。堀越高校卒、明治大学卒、178センチ、83キロ。右投右打

偉大なる野球人だった父の背中を追って、プロ野球選手を夢見る

野村克則は、野村克也が南海ホークス選手兼任監督時代、当時愛人だった芳枝(野村沙知代)との間に生まれます。1978年、克也の正式な離婚により家族関係が成立し、芳枝との前夫との間にいた二人の男子(ケニー野村、団野村)は異父兄弟となりました。父は、1980年まで現役生活を続けていたため、当たり前のように野球少年となります。当時、野球人としての父の偉大さは理解できず、自身も同じようにプロ野球選手になって父を越えることを目標としました。

堀越高校で厳しい練習に耐えると、1991年3年夏は野球部主将として甲子園を目指します。西東京大会の3回戦、5回戦、準々決勝をすべて1点差で制して世田谷学園との準決勝には両親の応援する姿もありました。点の取り合いとなり、6-6で延長戦に入ります。10回裏にはサヨナラのチャンスで打席に入りましたが生かせず、11回に勝ち越し点を奪われて敗退しました。その後は明治大学に進学し、捕手、内野手として腕を磨きます。1993年には、打撃が好調で、東京六大学で首位打者と打点王の2冠に輝きました。プロスカウトから注目されるレベルではありませんでしたが、克則の希望はプロで勝負すること。父・克也は苦しさを理解していたため、最後までプロ入りに反対でしたが本人の気持ちは揺るぎませんでした。

父が監督を務めるヤクルトに入団も、第2捕手の座も掴めず

野村克也は、1990年からヤクルトスワローズの監督に就任し、ID野球を掲げBクラス常連だったチームを見事3年でリーグ優勝に導きます。その翌年、さらに2年後の1995年も日本一とまさに黄金時代を形成しました。そして同年は息子・克則がプロ志望届を提出した年であり、ほぼ全権を握る監督としてドラフト3位指名で指名します。名捕手・野村克也の息子は、ポジションも同じ捕手で入団しました。

混同を避けるために、登録名を「カツノリ」とし、夢にまで見たプロ野球生活が始まります。しかしここから本当の苦しみがスタートしました。大学時代でも突出した成績を残せませんでしたが、プロとのレベル差に愕然とします。そして偉大なる父の影がちらつき、想定していなかった重圧がのしかかりました。

当時のヤクルトは、絶対的正捕手として古田敦也がおり、野口寿浩も控え捕手として存在していたため入る隙はまったくありません。ルーキーイヤーは一軍出場ゼロに終わりました。2年目に初出場、初本塁打も放ちましたが、マスクをかぶる試合は大きく得点差がついた時だけに留まります。野口が1998年シーズン開始早々に移籍しチャンスが増えるかと思われましたが状況は前年同様でした。

阪神へ移籍して4シーズンを過ごすもレギュラーになれず

1999年、父が阪神監督に着任し、ヤクルトの監督が若松勉に代わると、守備固めでも出番はなくなます。ルーキーイヤー以来の一軍出場ゼロに終わると、2000年、再び父が上司となる阪神へ金銭トレードでの移籍が決まりました。ヤクルト時代とは異なり、連続最下位を喫する暗黒時代であり、出場試合数は増えていきます。2001年には、2本のサヨナラ打とバットで存在感を示しました。しかし、阪神にも正捕手・矢野輝弘、第2捕手・山田勝彦の存在が大きく立ちはだかり、2002年には11試合と出場機会を減らします。2003年、新監督に星野仙一が着任すると、一軍試合出場ゼロと歴史は繰り返されました。

巨人は1年で解雇通告を受けるも、指導力に高い評価を受ける

2004年からは、再び金銭トレードで巨人に移籍します。ここでは本名登録が原則のため、野村克則として登録されました。しかし、常勝軍団にも攻守で存在感を見せる正捕手・阿部慎之助の存在は絶対で、2番手捕手も村田善則、小田幸平、加藤健らライバルがひしめき合います。当然、野村の出番はファーム中心となり、一軍出場はわずか3試合に終わりました。オフに戦力外通告、あわせてコーチ就任の打診を受けます。選手としては成果を残せませんでしたが、指導力を大きく買われたのでした。しかし現役続行にこだわり、12球団トライアウトに臨みます。すると2打席連続本塁打を放ち、翌年から誕生する楽天への入団をこぎつけました。

楽天で初めて第2捕手の座を務めるも、2度目の戦力外通告

東北楽天ゴールデンイーグルスは、近鉄球団の消滅、そして分配ドラフトによって集められた選手たちを中心とするチームとしてスタートします。慢性的な選手不足もあって、初年度は勝率3割にも満たない最下位で終わりました。野村克則は、再びカツノリの登録名でスタートしましたが、前年とほぼ変わらない6試合出場に終わります。オフに初代監督の田尾安志が解任されると、後任として父・野村克也が監督に就任しました。

父が監督という状況は、実に三度目でしたが、2006年はキャリアハイの56試合に出場します。正捕手・藤井彰人に続く、第2捕手として50試合でマスクをかぶりました。しかし、シーズン途中に自身2度目の戦力外通告を受けます。ついに現役引退を決意し、シーズン終盤には引退試合が企画されました。1試合6盗塁という当時のワースト記録を作ってしまいましたが、安打も放って有終の美を飾りました。

指導者として大いに期待され、かつて所属した球団を渡り歩く

巨人を離れるとき同様に、コーチ就任を打診され球団へ残ることを選択しました。2007年から3年間楽天で二軍育成コーチ、一軍バッテリーコーチを務めます。父・克也の監督退任と同時に楽天を去ると、2010年からは、かつて打診を受けた巨人で二軍バッテリーコーチを実に4年間歴任しました。自身も二軍生活が長かったことを糧として、ポスト阿部慎之助の育成に尽力しました。さらに2014年からはヤクルトのコーチに就任と、現役引退後、休むことなくコーチとして過ごしています。選手時代は大成しませんでしたが、ID野球の継承者として大きく期待されています。


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