名前佐藤秀樹(サトウヒデキ)
生年月日1970年4月21日
日本
出身静岡県
プロフィール1986年の富士地区大会では、ほとんど速球だけで2試合連続のノーヒットノーランを達成。同年の東海地区大会では右わき腹の筋肉を痛めたが、そのケガをきっかけに力でねじ伏せるだけの投球からかわすことを会得、球力に幅ができる。

1987年春のセンバツ大会に出場するも初戦敗退。3年最後の夏は決勝、延長13回を戦うも敗れる。卒業後、三菱重工横浜に勤務。

1992年ドラフト1位で中日に入団。1994年はローテーション投手として規定投球回をクリア。しかし徐々に成績を下降させる。1998年12月西武に移籍。在籍4年で1セーブと振るわず2002年オフに戦力外通告。

2003年、ヤクルトに移籍して5勝と復活の兆しを見せる。2004年、一軍登板ゼロに終わり戦力外通告。2005年台湾球界チャレンジも結果を残せず同年引退。2006年から中日スコアラー就任。2014年二軍投手コーチ。2016年から再びスコアラー。

NPB通算成績は145試合、22勝25敗1S、防御率4.61、458回1/3、326奪三振。
CPBL通算成績は6試合、2勝3敗0S、防御率6.91、28回1/3、15奪三振。富士宮西高卒、182センチ、82キロ、右投右打

静岡県高校野球史に残る熱闘を見せるも、夏甲子園出場を逃す

佐藤秀樹は、静岡県に生まれ、地元岳陽中から富士宮西高へと進学します。1年生秋からチームのエースとしてマウンドに上がるようになり、高校生離れした速球で一気に頭角を現しました。秋季大会で、2試合連続ノーヒットノーランを達成し、静岡県大会を制します。そして、続く東海地区大会では、同じく静岡から出場していた富士高校に決勝で敗れましたが、見事富士宮西高として初の甲子園出場を決めました。1987年センバツ初戦では、エースで4番として大阪の市岡高校と対戦します。前半までで3-0とリードしましたが、終盤に勝ち越しを許して甲子園1勝は夢と消えました。

春夏連続出場を狙った夏は準々決勝で破れ、3年最後の夏に全てをかけます。順調に勝ち進み、準決勝では延長11回を完投して、静岡学園を振り切り決勝戦までたどり着きました。そして浜松商業との決勝戦は静岡県の球史に残る名試合となります。相手エース岡本将秀との壮絶な投手戦は、1-1のまま延長戦に入りました。先行の富士宮西は11回表に1点を勝ち越しましたがその裏同点とされて、13回に突入します。再び勝ち越して、13回裏を迎えましたが、三度同点に追いつかれサヨナラスクイズで無念の敗戦を喫しました。両投手完投という熱戦にピリオドが打たれ、浜松商業は甲子園でもベスト8入りを達成します。佐藤は悔しさを胸に、卒業後、三菱重工横浜で野球の腕を磨きました。

即戦力としてローテーション投手を務め、10.8決戦でも好投

1992年、中日ドラゴンズはドラフト1位で松井秀喜を指名しましたが抽選で破れ、佐藤秀樹を外れ1位で指名します。当時の中日先発陣は、若手が今中慎二のみであり、佐藤は即戦力として大きく期待されました。1993年、開幕にこそ出遅れましたが、7月にプロ初登板します。8月には初勝利を挙げるなど、13誌試合に登板して4勝1敗、防御率4.12とまずまずの成績を残しました。

プロ2年目の1994年、中日と巨人は最後の最後まで優勝を争う大混戦となります。同年は山本昌が2年連続最多勝をマークする19勝、今中が13勝と両左腕がフル回転して後半戦に怒涛の追い上げを見せました。そして佐藤も、2年目ながらローテーションに定着して二人の大黒柱に続く第3の先発として機能します。規定投球回数もクリアして、7勝9敗と負け越してはいたものの、リーグ9位の防御率3.14と役割をこなしました。

129試合目に山本が完投勝利を挙げて、両チームが69勝60敗で並び、最終の直接対決に優勝の行方がゆだねられます。10.8決戦と呼ばれた伝説の試合、先発今中が打たれ、2番手の山田喜久夫が5回表から登板しましたが、いきなり松井にアーチを浴びて4点ビハインドという状況で佐藤はマウンドにあがりました。3四球をあたえるも、3回を無失点に抑え後続にバトンを託します。しかし、流れを取り戻すことはできず、3-6で敗れて逆転優勝は実現しませんでした。

不調の時期が続き中継ぎ降格となると、脱税事件にも関与

その後も、待望の本格派右腕は、中日のエースナンバー20を背負うエース候補として期待されます。しかし、1995年は、3勝9敗、防御率6.63と大崩れすると、翌年はローテーション投手を剥奪されました。中継ぎメインで、32試合に登板して防御率4.93とわずかながら回復を見せます。ところが、1997年の登板が6試合に終わると、オフにはプロ野球脱税事件の一人として名前が上がりました。額が小さく起訴を免れましたが、1998年は開幕から3週間の出場停止処分を食らいます。その余波もあってか、同年は自身初の一軍出場無しに終わりました。

西武、ヤクルトと2球団を渡り歩くも、活躍が続かず戦力外通告

1999年、新天地での活躍を期して、西武ライオンズへのトレードが決まります。初年度は12試合の登板ながら、1セーブ、防御率2.88と復活の兆しを見せましたが、その後3年間での一軍登板はわずか1試合に終わりました。2002年、西武はリーグ優勝を成し遂げましたが、自身は全く戦力になれません。そして同年オフに戦力外通告を受けて退団しました。

その後、ヤクルトと契約を交わし、再びセ・リーグでのプレーが決まります。主に中継ぎながら、ローテーションの谷間に先発するなど、28試合で5勝とカムバック賞候補に名前が挙がりました。ところが翌年は、一転して一軍出場ゼロに終わり、自身2度目の戦力外通告を受けました。

台湾球界へチャレンジするも、失われた輝きを獲り戻せず引退

現役続行にこだわる佐藤秀樹は、12球団トライアウトを受験します。しかし、獲得に手を挙げる球団はなく、台湾球界へのチャレンジを決意しました。中華職業棒球大聯盟の誠泰コブラズへ入団し、再起をかけます。しかし、オール先発で6試合に登板も、2勝3敗、防御率6.91と助っ人としての働きを見せることができず、同年限りで現役引退しました。

現役引退後は、古巣に復帰し、スコアラーやコーチとして活躍

2006年からは古巣中日へ戻り、スコアラーに転身します。7年間、セ・リーグライバル球団を担当し、2012年まで務めました。2014年シーズンからは、中日二軍投手コーチに就任します。2015年、愛息が中京大中京の遊撃手として甲子園の土を踏み、話題となりました。2016年からは、再び中日スコアラーとして活躍しています。


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