名前 | 高橋建(タカハシケン) |
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生年月日 | 1969年4月16日 |
国 | 日本 |
出身 | 神奈川県横浜市 |
プロフィール | 横浜高時代は一塁手兼外野手。拓殖大では4番を打ち、大学通算17本塁打。4年の時にセンターから投手に転向。トヨタ自動車に入り、左の速球派投手として活躍。1993年全日本入り。
1995年ドラフト4位で広島に入団。即戦力としてルーキーから中継ぎに先発にフル回転。2001年からは、先発投手に固定されると、初の二桁10勝をマークするなど3年連続で規定投球回数をクリア。 2004年FA権を行使せずに残留。2005年、左膝大腿骨滑車面軟骨損傷で戦線離脱し手術を選択。2006年中継ぎとして復帰すると、2007年から再び先発としてローテーションを守ります。2008年には、39歳で初めてファン投票1位となりオールスターに出場。 2008年オフ、FA宣言してメジャー挑戦を表明。トロント・ブルージェイズとマイナー契約するも、2ヵ月後に解雇。同日、ニューヨーク・メッツとマイナー契約。3Aで好投を続け、4月にメジャー昇格。5月に史上3位の高齢記録でメジャー初登板。28試合に登板するも未勝利に終わり、10月に戦力外通告。 2010年、広島に復帰してプレーするも、不本意な成績に終わり、同年引退。2016年からは阪神二軍投手コーチに就任。 NPB時代の通算成績は459試合、70勝92敗5S、23ホールド、防御率4.33、1,459回2/3、1,066奪三振。 MLB時代の通算成績は28試合、0勝1敗、防御率2.96、27回1/3、23奪三振。拓殖大学卒184センチ、85キロ。左投左打 |
大学時代に投手へ転向すると、2年後には全日本メンバーに選出
高橋建は、神奈川県横浜市に生まれ、幼少時代は喘息に苦しみます。その後、野球を始めると才能を開花させ、名門・横浜高校へ進学しました。1年時から2年連続で夏の県大会準優勝するなど、後一歩で甲子園を逃します。そして最上級生となった1987年、一塁手兼外野手としてレギュラーとなり、聖地を目指しましたがまさかの2回戦敗退で早々に姿を消しました。
卒業後は、柔道部主将として全国優勝を達成した父と同じく拓殖大学へ進学します。野球部に入りましたが、戦国の東都と呼ばれる激しいリーグにおいて、4年間全てを2部で過ごしました。チームでは4番を務め17本塁打を記録していましたが、4年生時、監督の強い要望で投手へ転向します。その後進んだトヨタ自動車では、左の中継ぎとして活躍し、1993年には全日本メンバー入りするほど実力をつけていました。
26歳のオールドルーキーは、チームに貴重な即戦力左腕として活躍
1994年ドラフト会議では、広島東洋カープから4位指名を受けます。高橋建は、すでに結婚もしており子連れルーキーとして、26歳でプロ野球人生をスタートさせました。年齢的にも即戦力として期待され、開幕第2戦目からリリーフとして初登板します。さらに7戦目には初先発として抜擢されるなど、いきなり39試合に出場しました。
その後も、貴重な中継ぎ左腕として多くの試合に起用され、ローテーションの谷間には先発マウンドも任されます。2000年には、チームトップかつキャリアハイの50試合に登板しましたが、先発としても10試合という難しい調整を強いられました。
先発に転向すると、初の二桁勝利など3年連続で安定投球を見せる
2001年、チームの監督が山本浩二に代わると、本格的に先発投手に固定されます。先発登板30試合は、佐々岡真司に次いでチーム2位、投球回数173回もエース黒田博樹に続く2位とローテーション投手の一人として、自身初の二桁10勝をマークしました。翌年も、2年連続で170イニングを投げぬくなど、広島先発投手陣の一人として活躍します。しかし9勝14敗とリーグワーストの敗戦を喫し、チームも1998年から続くBクラスからの脱却はできませんでした。
2003年は、開幕から好調を維持し、防御率1点台をキープして先発8連勝をマークします。2年ぶりの二桁勝利、そして投手タイトルすら狙えるところでしたが、後半戦は突如不調に陥り、2年連続の9勝止まりでした。2004年は、前年後半の不調から脱することができず、4連連続の規定投球回数をクリアすることができず、わずか3勝に終わります。FA権をすでに取得しており、トロント・ブルージェイズも獲得の動きを見せましたが、FA権を行使せずに広島残留を選択しました。
大怪我を克服して復活すると、ベテラン先発左腕として活躍
2005年、新たな気持ちで先発としてローテーションを守っていましたが、故障で本来のピッチングができず、1勝も挙げることなく8月に戦線離脱します。さらに精密検査の結果、左膝大腿骨滑車面軟骨損傷が発覚し手術を余儀なくされました。36歳のベテランとなりながらも、2006年貴重な中継ぎ左腕として復活します。同年は防御率4点台ながらもチーム3位の54試合に登板しました。
2007年、先発に故障者が出たため、高橋建が先発ローテーション投手に復帰します。規定投球回数にはわずか届きませんでしたが、約1000日ぶりの先発勝利に、完封勝利など存在感を見せました。翌年も開幕から好調を維持すると、39歳ながらファン投票1位で選出されてオールスターに出場します。年齢を重ねても防御率を向上させて、同年は8勝5敗の成績を残しました。
夢を諦めきれず海を渡り、40歳でメジャーリーグデビュー
翌年、不惑の40歳を迎えるタイミングで、高橋建は驚きの行動に出ます。元のチームメイトの黒田博樹や、横浜高校の後輩・松坂大輔らが海を渡る中、メジャーで投げてみたいという欲求を抑えられませんでした。そして、かつて獲得の興味をもってくれたトロント・ブルージェイズとマイナー契約を交わします。オープン戦で結果を残しメジャー昇格を目指しましたが、怪我のため登板することなく解雇されました。
しかしニューヨーク・メッツとマイナー契約すると、3Aで6試合に登板して防御率0.77を残し、メジャー昇格を手に入れます。そして2009年5月、40歳にしてメジャーデビューを果たしました。第二次世界大戦以降、史上3位という高齢記録であり、一度降格するも、メジャー26試合に登板します。防御率2.96という好成績を残しましたが、0勝に終わり、同年で解雇通告を受けました。
古巣広島で再びプレーして引退後、現在は阪神コーチ就任
夢の挑戦を終えると、再び古巣・広島東洋カープに復帰します。開幕から中継ぎとして登板し、4月には2日連続で勝利投手となりました。4勝をマークしましたが、徐々に調子を崩し、6月下旬に二軍降格となります。その後、怪我も重なり一軍昇格できず、ついに引退を決意しました。
引退後は、5年間ほど解説者を務め現場から離れていましたが、2016年から阪神タイガースの二軍投手コーチへの就任が決まります。かつて広島で7年間同じユニフォームを着ていた金本知憲の要望を受ける形で実現しました。メジャーマウンドも経験し、日本通算70勝をマークした左腕が、今度はその実績を指導者として生かしています。