名前 | 古葉竹識(コバタケシ) |
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生年月日 | 1936年4月22日 |
国 | 日本 |
出身 | 熊本県熊本市 |
プロフィール | 済々黌高2年の時、三塁手、二番打者で春の選抜高校野球に出場。専修大に進むが、8ケ月で中退し、社会人野球の日鉄二瀬入り。
1958年広島に入団。1970年南海に移り、1974年再び広島に戻る。1964年、1968年と盗塁王に輝いた。1975年シーズン途中に退団したルーツ監督のあとを受けて監督に就任し、チームを初優勝に導いた。1985年に退団するまで監督10年でリーグ優勝4回、3度の日本一を果たした。 1986年シーズン終了後大洋監督に就任。1989年10月成績不振の責任を取って辞任。1999年殿堂入り。 2007年から東京国際大学野球部に関わり、監督として2011年には東京新大学野球リーグで初優勝。全日本大学野球選手権ベスト4を達成。現在は同大学名誉監督を務める。 通算成績は1,501試合、5,427打数1,369安打、44本塁打、334打点、263盗塁、打率.252。盗塁王2回、ベストナイン1回、正力松太郎賞1回。済々黌高卒、専修大学中退、右投右打、170cm、70kg |
日鉄二瀬・濃人渉の導きにより、社会人から広島カープ入りが決定
古葉竹識は、熊本県熊本市に生まれ、兄弟7人という大家族で過ごします。元々裕福な家庭で育ちましたが、戦後に会社が倒産し、若くして父を白血病で失うと辛い暮らしを強いられました。そんな中野球を続け、済々黌高2年時には、センバツ出場して甲子園の土を踏みます。2回戦を突破し、準々決勝に進出しましたが、浪華商に0-1で惜しくも敗れました。その後は、甲子園出場できず、専修大学へ進学します。そして休み中に済々黌高で教えていたところ、日鉄二瀬田休部監督・濃人渉の目に留まり、スカウトされました。
経済的な事情もあって大学を中退し、日鉄二瀬へ入社するとチームの都市対抗野球大会出場に貢献します。チームメイトだった江藤愼一のスカウティングにきた広島カープに対し、濃人が古葉を強く推奨すると、それがきっかけとなって広島への入団が決まりました。
即広島内野手レギュラーを奪い、盗塁王2回と機動力を見せる
広島入団後、即遊撃手のレギュラーを奪うと、2年目から徐々に打率も上げていきます。6年目にはオールスター初出場でMVPを獲ると、長嶋茂雄との熾烈な首位打者争いを展開しました。しかし、終盤に顔面に死球を食らい打率.339のままシーズンが終了します。結局長嶋が、打率.341で首位打者となりましたが、堂々の2位さらに守備力も評価されて初のベストナインを受賞しました。
翌年、死球の後遺症で大きく打撃を狂わされ、リーグ最下位の打率.218に終わります。しかし機動力を武器に、57盗塁で初の盗塁王に輝きました。その後もチームの主力として試合に出続け、1968年には2度目の盗塁王に輝きます。しかし、1969年は若手の台頭で、68試合に留まり、ルーキーイヤー以来の100試合出場クリアできずにシーズンを終えました。
南海ホークス移籍で、後の指導者生活の礎となる考え方を修得
広島で出番を失うと、野村克也が選手兼任監督を務める南海ホークスへの移籍が決まります。すでに35歳とベテランの域に達していたため、選手としてはほとんど活躍できませんでした。しかし、引退後もホークスに残り、指導者生活をスタートさせると、後の監督業につながるスキルを身につけます。野村監督、そしてヘッドコーチを務めていたブレイザーからシンキングベースボールの仕組みをしっかりと学びました。
突然の監督就任にも関わらず、広島を球団創設初優勝に導く
1973年は南海のコーチとしてリーグ優勝するなど、指導者として経験を積みます。すると、そのオフ、大学の先輩だった森永勝也に要請されて、広島一軍守備コーチとして古巣に復帰しました。しかし森永監督が率いた1974年もリーグ最下位に終わり、球団創設24年目も初優勝は実現しません。すると、球団は1年で森永を解任し、チーム再建を初の外国人監督ジョー・ルーツに託しました。
ルーツは、チームカラーを赤に一新し、トレードで大下剛史を獲得、衣笠祥雄の三塁手コンバートなど次々と改革を実行します。しかし、開幕早々に審判の采配でもめたことをきっかけに、わずか15試合でアメリカへ帰国しました。チームの緊急事態に、39歳だった古葉竹識コーチが監督代行を務めます。3年連続最下位になっていた広島でしたが、レギュラー選手たちは経験豊富でメンバー的にも引けをとるものではありませんでした。古葉は自身選手時代後半に培った機動力重視の野球を実践します。前年はチームで49盗塁でしたが、リーグトップの124盗塁、そして投手陣も唯一チーム防御率2点台を記録しました。山本浩二やホプキンス、衣笠ら打者陣も活躍し、夏場に首位を捉えると一気に球団創設初優勝を成し遂げました。
機動力野球で日本一を3度達成するなど、広島黄金時代到来
苦節25年目に初優勝を飾ると、1976年からは正式に広島監督として長期政権を任されます。3位、5位と順位を落とし、低迷時代に逆戻りかと思われましたが、再びチームを上昇気流に乗せました。1978年、圧倒的な攻撃力でAクラス3位に復活すると、1979年は夏場に首位を奪うと、4年ぶりのリーグ優勝を実現しました。そして、前回敗れた日本シリーズへ挑みます。近鉄バファローズとの死闘となるも、リリーフエース江夏豊の活躍もあって悲願の日本一を初めて達成しました。
自信をつけたチームは勢いが止まらず、1980年は開幕から首位を走りリーグ連覇を成し遂げます。日本シリーズでも、2年連続で近鉄を下し、広島黄金時代を告げる日本シリーズ連覇を達成しました。さらに、1984年も、山根和夫、北別府学、大野豊ら強力投手陣が活躍して、3度目の日本一に上り詰めます。山本浩二、衣笠祥雄というONにも匹敵するYH砲が目立つ存在ですが、機動力を活かした緻密な野球で、10年の監督在籍で4度のリーグ優勝、3度の日本一を果たしました。
大洋監督でもチーム再建を期待されるも、Bクラスから抜け出せず
1985年限りで広島監督を退任すると、1987年からは大洋ホエールズ監督に就任します。1960年の日本一以来、優勝から遠ざかり、監督就任直前も3年連続Bクラスと低迷するチームの再建を託されました。しかし、広島時代のように上手くは行かず、5位、4位とBクラス脱却ができず、1989年には最下位に転落します。そして同年、その責任を取って監督を辞任しました。
アマ指導者に転身し、東京国際大学監督としてリーグ戦初優勝
1990年以降は、一時政界にも進出を試みましたが、プロ野球の世界に戻ることなく、野球界に貢献します。1999年には野球殿堂入りし、2007年からは東京国際大学野球部監督に就任しました。時間をかけてチームを指導すると、2011年には東京新大学野球春季リーグで初優勝を成し遂げます。その後行われた全日本大学野球選手権でもベスト4進出と快進撃を見せました。