名前 | 天谷宗一郎(アマヤソウイチロウ) |
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生年月日 | 1983年11月8日 |
国 | 日本 |
出身 | 福井県鯖江市 |
プロフィール | 鯖江中央中時代は鯖江ボーイズに所属。福井商の強打者として、2000年夏、2001年春・夏と甲子園3季連続出場。北陸のイチローと呼ばれる。
2001年ドラフト会議で、広島からドラフト9位指名を受け入団。2003、2004、2006年とウエスタンで盗塁王獲得も、一軍定着できず。2008年、ブラウン監督に開幕スタメンに抜擢されると、外野手レギュラーを獲得。 2009年も規定打席不足ながら打率3割をマーク。その後も準レギュラーとして一軍に定着。2013年からは、再び低迷期に入り、一軍定着できず。2016年のリーグ優勝時も、55試合出場で打率.175に終わる。2017年、16年目のシーズンを送っている。 通算成績(2016年まで)は787試合、1,894打数486安打、27本塁打、157打点、80盗塁、打率.257。福井商卒、177センチ、77キロ。左投左打 |
福井商時代、北陸のイチローと称されて3季連続で甲子園出場
天谷宗一郎は、福井県鯖江市に生まれ、地元の有力チーム「鯖江ボーイズ」で中学時代から硬式野球を始めます。そして、福井県における甲子園常連校・福井商業へ進学しました。そして2年夏には、後に巨人入りした内海哲也-李景一の強力バッテリーがいる敦賀気比と県大会決勝で対戦します。7番右翼手として出場した天谷はノーヒットでしたが、延長10回の末勝利しました。そのバッティングセンスと俊足から、「北陸のイチロー」と呼ばれ、自身初の甲子園でも注目されます。しかし初戦の浜松商業戦で1-2と惜敗しました。
その後も県下では、敵無しで2年秋の福井大会、3年夏の福井大会を制し、甲子園3季連続出場を決めます。甲子園での勝利は、センバツの初戦の桜美林高校戦だけとなりましたが、その試合で輝きました。3番打者として出場し、4回には本塁打するなど3安打、2盗塁でチームの大逆転勝利に貢献します。三拍子揃った素材、そして指名人数に制限がなくなったこともあって、2001年ドラフト会議では9位と下位ながら広島東洋カープから指名を受けました。
ウエスタンリーグで3度盗塁王を獲得するも、一軍定着できず
当時の広島外野陣は、金本知憲、緒方孝市、前田智徳らが、ベテランながらも絶対的なレギュラーとして君臨していました。そのため、高卒の天谷宗一郎は当然ファームでの身体作りからスタートします。2年目の2003年には、ウエスタンリーグに主力として出場するようになり、ジュニアオールスターに出場、そして27盗塁で盗塁王を獲得しました。2004年も2年連続でウエスタン盗塁王を奪うと、一軍初出場チャンスが舞い込みます。代走および代打などで10試合に出場し、プロ初安打を記録しました。
2006年も3度目のウエスタン盗塁王さらには最高出塁率も獲得するなど、ファームで結果を残します。しかし、一軍定着することができず、2007年の20試合出場が最多でした。同期入団の大竹寛(1位)がローテーション投手に、石原慶幸(4位)が正捕手になるなどチームでの主力となります。しかし、天谷は入団6年間で一軍出場はわずか49試合に留まりました。
初の開幕スタメンに抜擢されるとブレイクし外野手レギュラー獲得
7年目の2008年、天谷宗一郎に突如転機が訪れます。春季キャンプで、ブラウン監督にスピードを大いに評価され、自身初の開幕スタメン1番中堅手に抜擢されました。課題だった打撃も、4月早々にサヨナラヒットを放つなど好調なスタートを切ります。移籍してきた赤松真人との俊足外野コンビでも、投手陣を大いに助けました。同年はレギュラーとして135試合に出場して、打率.263とまずまずの成績を収めます。規定打席にはわずか3打席足りませんでしたが、チームトップの13盗塁など広島を久々の4位に浮上させました。
2009年も、8番右翼手として2年連続で開幕スタメンに名を連ねます。チームが打撃不振に陥る中、一人好調を維持し、4月中旬からは3番打者にも抜擢されました。4割近い打率をキープし、課題の打撃で開花したと思われましたが、5月中旬に骨折を負い長期離脱を余儀なくされます。それでも2ヶ月で脅威の復帰を果たすと、その後一軍の戦力として試合に出場して94試合まで伸ばしました。同年も規定打席不足でしたが、チームではトップで自身初の打率3割をマークします。得意の選球眼も冴え渡り、出塁率.361もレギュラー陣ではトップの数字でした。
明らかなホームランをキャッチするというスーパープレーを披露
2010年も、3番打者として開幕を迎えましたが、前年と打って変わって打撃不振に陥ります。打率を大きく落としたため、相手先発投手によって赤松真人と併用されるという準レギュラー扱いとなりました。同年は、123試合に出場しましたが、打率.245に終わります。それでも、8月には二つのビッグプレーで大きな印象を残しました。22日の横浜戦で、完全に本塁打という当たりもフェンスを駆け上がって好捕するという、天谷宗一郎の代名詞となっているスーパープレーを披露します。そしてその5日後には、延長での劇的なサヨナラ3ランを放ちました。2011年、100試合出場するも不振に陥りましたが、2012年にはチーム20年ぶりのランニングホームランを放つなど、3年連続で100試合出場を果たしました。
再び不振の時期を迎え、25年ぶりの優勝も控え選手として経験
準レギュラーから抜け出したいところでしたが、2013年から出場機会を減らしスランプに陥ります。丸佳浩が絶対的な外野手レギュラーとして定着し、残る外野手にもエルドレッドや松山竜平など打撃力のある選手たちが存在感を見せました。
2015年には、わずか30試合出場で6安打と一軍戦力になれません。その間、広島東洋カープは、若い選手たちが成長し、優勝を争える集団に生まれ変わりました。2016年は、開幕から好調を維持し、セ・リーグを独走します。天谷宗一郎も、オープン戦で結果を残し、序盤はスタメンとして起用されていました。相変わらず選球眼は良くチームに貢献していましたが、打率は1割台と一向に上がらず一軍二軍を往復するシーズンとなりました。チームは、見事25年ぶりの優勝を飾りましたが、55試合の出場で打率.175という不本意な成績に終わります。地力をつけたチームは、2017年も快調にペナントレースを送っており、天谷も生え抜き16年目のベテランとして連覇を目指しています。