名前 | 篠塚和典(シノヅカカズノリ) |
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生年月日 | 1957年7月16日 |
国 | 日本 |
出身 | 千葉県銚子市 |
プロフィール | 千葉県の清水小で本格的に野球を始め、銚子一中を経て、銚子商に進む。1974年、2年生ながら4番を任され夏の甲子園で優勝。
1975年ドラフト1位で巨人入団。1980年レギュラーに定着。1981年以降7年間で6回3割を打つ。1984年、1987年と2度セリーグ首位打者に輝く。1992年7月改名。1994年、通算打率.303で現役引退。 その後は2期にわたって巨人コーチを務める。2009年には第2回WBC日本代表打撃コーチとして日本の連覇に貢献。 通算成績は1,651試合、5,572打数1,696安打、92本塁打、628打点、55盗塁、打率.304。首位打者2回、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞4回。銚子商卒、右投左打、176cm、68kg |
2年生で銚子商業4番に座り、木製バットで甲子園全国制覇
篠塚和典は、千葉県銚子市で育ち、4歳の頃に兄に連れられて草野球を見た時から野球に興味を持ち始めます。4年生の3学期からでないと小学校の野球部に入れなかったため、地元の少年野球チームに入りました。5年生でようやく野球部に入ると、当時の監督にプロ野球選手なれると言われたことで、大きく意識も変わります。プロ行きは夢から目標に変わり、そのプロに行くために、スカウトの目に留まるよう甲子園出場できそうな銚子商業高校に進学しました。
当時の銚子商業は強豪で、1年夏から甲子園に出場し全国ベスト8を成し遂げます。この時はメンバーに入れませんでしたが、2年春のセンバツ時はレギュラー三塁手として出場しました。2試合連続マルチ安打で2季連続ベスト8に大きく貢献しました。さらに続く2年夏もチームとして4季連続甲子園に出場します。同大会から金属バットが解禁されましたが、プロを目指す篠塚は木製バットにこだわりました。エース土屋正勝と4番篠塚という投打にバランスの取れたチームは圧倒的な強さを見せます。初戦のPL学園戦で5-1と快勝スタートすると、以降4戦を完封するという他校を全く寄せ付けず初の全国制覇を達成しました。
大病でプロ入りが危ぶまれるも、まさかの巨人ドラフト1位指名
甲子園全国制覇で、卒業1年前にしてプロから注目されます。しかし、その後まもなく湿性肋膜炎を患い、野球生命を脅かされました。入院を余儀なくされて野球から離れ、チームも甲子園出場を逃します。元々線が細かったこともあって、ほとんどのスカウトは篠塚和典をマークから外すことになりました。
自身も夢のプロ野球選手を諦めかけていましたが、1975年ドラフト会議では巨人からドラフト1位指名を受けます。会場もどよめく驚きの指名は、篠塚の才能を高く評価した長嶋茂雄監督が周囲の反対を押し切った結果でした。
伝説の伊東キャンプで鍛えられ、二塁手レギュラーを獲得
高卒ルーキーのため、ルーキーイヤーはファームでの身体作りに専念します。2年目の8月に一軍初出場し初安打もクリアしましたが、入団3年間で合計100試合にも満たない出場に終わりました。長嶋巨人は、1975年の初の最下位からリーグ連覇とチームを立て直しましたが、その後2位、5位と強さを持続できません。V10を逸して以降、世代交代が遅れていたのは明らかでした。
そして1979年秋、後に伝説と言われた伊東キャンプを迎えます。投打の若手18名だけが選抜され地獄とも称されたキャンプで徹底的に指導を受けました。篠塚和典も野手12名のメンバーに入り、連日血ヘドを吐くほどの猛練習で強い身体と精神力が鍛えられます。こうして次世代の巨人を担う主力たちが作り上げられました。そして、直後の1980年、二塁手篠塚、三塁手中畑がレギュラーを奪います。1981年、スーパールーキ-原辰徳の入団で一時、二塁手を明け渡しましたが、中畑が故障離脱したため、原は三塁手にコンバートされました。一方篠塚は二塁手に戻って、首位打者にわずか1厘差の打率.357をマークしたため、中畑は一塁手にまわります。こうして1980年代を彩る巨人黄金の内野陣が固まりました。
首位打者を獲得した広角打法と華麗な守備でベストナイン常連
二塁手レギュラーを掴むと、巧みなバットコントロールと華麗な好守備でその座を磐石なものとします。後にイチローが憧れたといわれる天才的な広角打法でヒットを量産し、5年連続打率3割と首位打者争いの常連となりました。巨人の上位打線に居座り、1984年には、打率.334で大混戦を制し、ついに初の首位打者に輝きます。ベストナインとゴールデングラブ賞のダブル受賞を実に4度(1981、1982、1984、1986年)も成し遂げているように、まさに球界を代表するプレイヤーとして名を馳せました。
トレード拒否して巨人に残ると、意地を見せる2度目の首位打者
1986年、6年連続打率3割を逃すと、オフに落合博満(当時ロッテ)との大型トレード相手との噂が生じます。しかし、巨人を出るのなら野球を辞めると宣言し、トレード話はご破算となり、落合は中日ドラゴンズへ移籍しました。すると翌シーズンにおいて、2度目の首位打者を獲得して意地を見せます。落合、正田耕三(広島)と熾烈な争いとなりましたが、打率.333で篠塚と正田が同率で獲得しました。さらに、同年は4年ぶりのチームの優勝も実現したことで自身の存在感を見せ付けます。前年の不振を吹き飛ばす首位打者、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞しました。
晩年は腰痛に苦しむも、通算打率.304と高い数字を残して引退
1988年も自身7度目の打率3割を達成しましたが、その後は持病の腰痛が悪化し成績が下降します。1990年からは、緒方耕一ら若手の台頭もあって、規定打席に到達することはなくなりました。代打での起用がメインとなり、さすがのバットコントロールを披露しましたが、1994年の日本一を花道に現役引退を決意します。通算1,696安打と、名球会入りの2000本には届きませんでしたが、通算打率.304と巨人では川上哲治(.313)、長嶋茂雄(.305)に続く第3位の成績でした。
現役引退後もそのまま巨人に残り、2003年まで一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任します。2年の充電期間を経て再び復帰し、2010年までコーチを務めました。その途中、2009年には第2回WBC日本代表の打撃コーチも兼務し、日本の連覇に貢献します。2012年には韓国プロ野球・LGツインズの臨時コーチも務めました。