名前原田雅彦(ハラダマサヒコ)
生年月日1968年5月9日
日本
出身北海道上川郡上川町
プロフィール8歳でジャンプを始めた。

1991年世界選手権ノーマルヒル15位。1992年からV字飛型に転向。同年’92環太平洋カップ国際ジャンプ優勝。アルベールビル五輪個人・団体4位、ラージヒル4位。1993年2月世界ノルディック選手権ノーマヒル金メダル、ラージヒル4位。1994年リレハンメル五輪ノーマルヒル55位、ラージヒル13位、団体では銀メダルを獲得。

1995年12月W杯第3戦(フィラハ)でW杯初優勝。1996年W杯(ラハティ)で日本人シーズン最多の4勝目を挙げる。1997年HTB杯国際ジャンプ優勝、全日本選手権ラージヒル優勝、世界ノルディック選手権個人ラージヒルでは日本人初の金メダルを獲得。ノーマルヒルは2位。同年サマーGP総合優勝。1997年W杯第4戦(フィラハ)で2シーズンぶりに優勝。1998年1月全日本選手権ラージヒル優勝。

同年、長野五輪ノーマルヒル5位、ラージヒル2本目136メートルの大ジャンプで銅メダル、団体では1本目79.5メートルだったが2本目137メートルの大ジャンプを見せ金メダルを獲得。1997-1998年W杯では日本人シーズン最多の5勝で総合4位。1998年名寄ピヤシリサマージャンプ3連覇。同年サマーGP2年連続総合優勝。1999年UHB杯ジャンプ優勝。同年世界ノルディック選手権ノーマルヒル3位、団体2位。同年サマーGP総合4位。

12年雪印食中毒事件のため活動を自粛するが、10月のサマージャンプHAKUBAカップでは5人抜きで優勝。2001年1月STV杯ジャンプで優勝し、日本人歴代単独トップの67勝目を記録。同年3月全日本選手権ラージヒルで3年ぶり4度目の優勝。173センチ、55キロ。東海大四高卒、雪印乳業所属

中学生で天才ジャンパーと注目され、高校生から早くもW杯参戦

原田雅彦は、1968年、北海道上川郡上川町で生まれます。1972年に札幌五輪が開催されたこともあって、近くに子ども用ジャンプ施設があり、ジャンプというスポーツが身近な存在でした。幼い頃からスポーツ万能で大好きな野球やサッカーもやりながら、小学3年生時に初めてジャンプを経験します。友達は成長するにつれてジャンプではなく他のスポーツに興味を示しましたが、原田は逆にジャンプにのめりこんでいきました。

中学1年生で全国中学ジャンプ選手権を制すと、翌年も連覇という40年ぶりの快挙を達成します。天才ジャンパーとして注目されて、中学3年から世界ジュニア選手権に出場しました。初挑戦では33位でしたが、東海大四高校進学後、高1で22位、高2で15位と着実に成長します。高3でインターハイを制すと、ついにW杯に初参戦しました。

いち早くV字ジャンプを取り入れて、世界選手権ノーマルヒル優勝

1987年に高校を卒業すると、雪印に入社してスキー部に所属します。その2年後に、ヤン・ボークレブ選手(スウェーデン)が当時の主流とは異なるV字型ジャンプでW杯年間総合優勝を決めたことで衝撃を受けました。自身は翌1990年の世界選手権でもノーマルヒル15位、ラージヒル17位と伸び悩んでいたため、日本人で誰よりも早くV字ジャンプに取り組みます。飛型点は低いけれども、自身が最もこだわっていた飛距離が伸びるV字ジャンプはフィットし、一躍日本のトップジャンパーの仲間入りを果たしました。

1992年には、アルベールビル五輪に日本代表として初出場します。個人ノーマルヒル14位、そして上原子次郎、原田雅彦、葛西紀明、須田健仁で挑んだ団体ラージヒルも4位、さらに個人ラージヒルでは日本史上最高位の4位と大きな結果を示しました。そして、1993年の世界選手権では、ノーマルヒル優勝と札幌五輪代表だった笠谷幸生以来21年ぶりの快挙を成し遂げます。日本ジャンプ界のエースにのしあがり、次期五輪、さらには地元開催の長野にも大きな期待をかけられました。

リレハンメル五輪団体では、大失敗ジャンプで銀メダルに終わる

1994年まで夏冬の五輪は同じ年に開催されていましたが、隔年開催にするため、リレハンメル冬季五輪が前回大会から2年後という早期開催となります。前年に、世界選手権で優勝していた原田雅彦は、まさに絶好調で巡ってきました。ラージヒルでは、1本目4位につけるも2本目で失敗し13位と惨敗します。そして、迎えた団体戦は、原田のほか西方仁也、岡部孝信、葛西紀明という皆調子を上げてきたメンバーで挑みました。

コーチは冷静に分析し、スーパージャンプはあるけれども安定していない原田をアンカーに回し、先行逃げ切りでのメダル獲得を目指します。1本目を終えた時点で、1位ドイツと僅差の2位につけましたが、日本3選手の2本目は、全員大ジャンプでドイツを逆転し、圧倒的大差をつけました。距離にして105mを飛べば、念願の金メダルでしたが、アンカー原田が97.5mの大失敗ジャンプに終わり銀メダルに終わります。日本中のため息を誘い、失意の中挑んだ個人ノーマルヒルも2本目が失敗となり、55位と惨敗しました。

深刻なスランプに陥るも、模索の中で原田型スタイルを会得する

リレハンメルでの戦いは世紀の大失敗と呼ばれ、大バッシングにあいます。さらに、1994年12月のW杯では若き天才・船木和喜が初出場初優勝し世代交代の声すら囁かれました。1995年の世界選手権でも、岡部孝信が個人ノーマルヒル優勝、船木が個人ラージヒル5位と好成績を出す中、個人ノーマルヒル52位で予選落ちとショックを引きずります。そこで船木や葛西紀明らの低い飛び出しスタイルへの変更を模索し始めました。しかし、これまでと180度異なる挑戦は、自身の特徴を消してしまいさらに泥沼にはまります。悩みに悩んだ末、原点回帰し、あくまでも高いジャンプスタイルを保持しつつ、ライバルたちのよさをあわせた原田型スタイルを編み出しました。

長野五輪では逆境の中、逆転の大ジャンプで悲願の団体金メダル

スランプを脱すると、長野五輪に向けて調子を上げていきます。開催前年の1997年の世界選手権では、個人ラージヒルで優勝し、ノーマルヒル・ラージヒルの両種目で優勝した初の日本人選手となりました。さらに1997-1998年W杯でも5勝に総合4位と自己最高位を確保します。一時外れていた日本代表団体メンバーにも復帰して、長野五輪を迎えました。

団体戦の日本3番手となった原田雅彦に、再び試練が襲い掛かります。1本目は、競技中止になりかねない悪天候で視界が悪く、79.5mの失敗ジャンプに終わりました。4人の1本目が終えて団体4位となり、誰しも4年前の悪夢がよぎります。しかし原田は2本目で圧巻の137mの大ジャンプを見せました。そしてアンカーの船木和喜が美しいジャンプを披露し、リベンジとなる金メダルを獲得します。4年前と異なり、日本中を感動の渦に巻き込み、個人でもノーマルヒル5位、ラージヒル3位と結果を残しました。

トリノでの5大会連続五輪出場を花道に引退し、指導者に転身

一躍時の人となり、1999年の世界選手権でも個人ラージヒル3位、団体2位と好調を維持します。しかし、ソルトレイクシティ五輪では、団体戦でただ一人4大会連続出場するも5位とメダルに届かず、個人ではノーマルヒル、ラージヒルともに20位と惨敗しました。すでに大ベテランの域となり、W杯や世界選手権出場はなくなります。トリノ五輪は、最後の出場枠を勝ち取り、5大会連続五輪出場を決めました。38歳のベテランは個人ノーマルヒルに絞り、予選で95mのジャンプを見せます。しかし、競技終了後の抜き打ち検査でスキー板の長さに対する体重が足りず、規定違反で失格となりました。

まさかの不完全燃焼に、次期バンクーバー五輪での雪辱を誓いましたが、やはり年齢が壁となります。帰国すると現役引退を決意し、雪印社員に戻りました。その後、スキー部コーチから監督に就任し、現在では全日本スキー連盟理事も務めています。現役時代、5大会連続で五輪に出場し、世界選手権も含めて9個のメダル獲得は日本人最多の実績を残しました。その経験を糧に後進の育成に務め、札幌市の2026年冬季五輪招致を目指しています。


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