名前堀池巧(ホリイケタクミ)
生年月日1965年9月6日
日本
出身静岡県清水市
プロフィール小学3年からサッカーを始め、清水FCに入団。

清水東高時代には、大榎克己、長谷川健太らと清水三羽烏と呼ばれ高校選手権優勝。順天堂大学でも大学サッカー界No.1のディフェンダーとして、1987年インカレ初優勝。在学中の1986年4月に20歳で日本代表入り。粘りのある守備には定評があり、堅実なプレーでソウル五輪予選にフル出場。

1988年読売クラブに入る。1992年清水エスパルス移籍。1993年には、日本代表としてドーハの悲劇も経験。1996年には、チーム初タイトルのナビスコカップ優勝に貢献。

1998年、出場機会が激減し、セレッソ大阪に3ケ月間レンタル移籍。1999年シーズン終了間際、エスパルスに復帰して引退。

2000年2月清水エスパルスの非常勤取締役に就任。2013年S級ライセンス取得。2014年から母校・順天堂大学の監督に就任。

国際Aマッチ 58試合出場2得点。

サッカー王国に生まれ、清水三羽烏として全国制覇を経験

堀池巧は、サッカーが盛んな静岡県清水市に生まれ、ごく当たり前に小学3年生からサッカーを始めます。4年生で清水FCに入団すると、後に自身とともに「清水東三羽烏」と呼ばれる大榎克己、長谷川健太という天才少年に出会いました。当初からあふれる才能をほしいまま試合で活躍していた二人とは異なり、Bチームのメンバー入りすら出来ません。しかし、めげずに練習を重ねると、1対1では絶対に負けない屈指のDFへ成長を遂げていました。

3人が集結した清水東高校時代、1年生では全国高校サッカー選手権出場を逃しましたが、2年で初出場します。そして、準決勝以外の4試合はすべて3点差以上の得点差をつけるという圧倒的な強さを見せて、同校初優勝を達成しました。最高学年時には1年生ストライカー武田修宏も加わり2年連続で全国舞台に帰ってきます。武田が5得点で得点王を奪う活躍を見せましたが、惜しくも準優勝に終わり連覇を逃しました。

大学No.1ディフェンダーとして名を馳せて、読売クラブ入団

順天堂大学へ進学しても、即レギュラーに定着して大学No.1ディフェンダーの名をほしいままにします。3年となった1986年4月、20歳にして日本代表に初選出されて、同年中に代表デビューも飾りました。五輪を目指す世代別代表には当然のように名を連ね、1987年はソウル五輪出場を目指します。最終予選でも4勝1分けで最後の中国戦に勝利すれば、20年ぶりの五輪出場という局面を迎えました。それまでフル出場していた堀池巧も、大一番に臨みましたが0-2で敗れて5大会連続予選敗退します。それでも同年の全日本大学サッカー選手権大会では、決勝で自らゴールを決めるなど、順天堂大学として初優勝を成し遂げました。

1988年、教員免許を取得して卒業すると、読売サッカークラブへ入団します。本来右サイドバックを務めていましたが、チーム事情から守備的MFやセンターバックとして即レギュラーを奪いました。加藤久とのコンビによる守備力は定評があり、JSL1部で常勝軍団と化したチームの守りを任されました。

清水エスパルスで三羽烏が再集結し、日本代表としても活躍

Jリーグ開幕を前年に控えた1992年、故郷静岡を本拠地とする清水エスパルスへ移籍します。チームには、大榎克己、長谷川健太も所属していたため、清水三羽烏が再集結しました。1993年、アメリカW杯を目指すアジア予選において、長谷川がフォワード、堀池が右サイドバック、大榎がディフェンダーと3人とも日本代表としてプレーします。勝てば日本初のW杯出場が決まる最終予選最後の試合でも、長谷川と堀池は先発として出場しました。堀池はフル出場しましたが、長谷川は途中から福田正博と交代します。しかし、ロスタイムで同点に追いつかれてW杯出場を逃し、それは後にドーハの悲劇と呼ばれました。

エスパルス創世記を支えて、クラブ初タイトル獲得にも貢献

日本代表としては出番が減りましたが、堀池巧は清水エスパルス創世記のDFとして存在感を示します。身長173センチと小柄ながらも、センターバックやサイドバックとして不動のレギュラーを務めました。Jリーグ元年は、1stステージ4位、2ndステージ2位の総合3位と上位で終わります。堀池は、全36試合に出場して、チームから唯一Jリーグベストイレブンに選出されました。1966年のナビスコカップでは、全16試合に出場してチーム初タイトルに貢献します。しかしリーグ戦では、なかなか優勝できない日々が続きました。

出場機会を求めて移籍するも、最後は清水三羽烏が勢ぞろい

1998年、エスパルスは好調を維持して1stステージ優勝争いを演じます。ジュビロ磐田との一騎打ちとなりましたが、得失点差で下回り2位となりました。しかし、同年から堀池巧の出番は一気になくなりベンチを暖めるようになります。2ndステージでも状況が変わらなかったため、9月から出場機会を求めて、セレッソ大阪への期限付き移籍をしました。

すると新チームでは、後半戦のほとんどで出場機会を与えられます。的確な読みとポジショニングなど豊富な経験でセンターバックを務めてチームに貢献しました。1999年は、再び出場機会が減り始めて、引退を意識し始めます。奇しくも古巣エスパルスは、2ndステージで初優勝を飾っていました。そして堀池はシーズン終了1試合前に、チームに呼び戻されます。そして初の年間王者をかけたチャンピオンシップでは、清水三羽烏が登録メンバーに入りました。しかし、大榎以外の2人には出番がなく、ジュビロ磐田に敗れます。そしてこの試合を最後に、堀池と長谷川健太が引退を表明し、一つの時代が終わりを告げました。

母校順天堂大学准教授および監督として指導者生活をスタート

現役引退後、長谷川健太とともにチームの取締役として残り、フロントという立場でエスパルスを支えます。その後、コメンテーターや解説者などを歴任する間に、大榎克己が早稲田大学ア式蹴球部監督に、長谷川も清水エスパルス監督とかつてのライバルたちは指導者への道をスタートさせていました。

堀池巧も、遅れること2013年にS級ライセンスを取得すると、2014年から母校順天堂大学の監督に就任します。長谷川がガンバ大阪監督、大榎が清水エスパルス監督としてJリーグトップで指揮を執るのに対し、アマチュア指導者生活を始めました。スポーツ健康科学部准教授にも就任しており、教育者としての活動も大きく期待されています。

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