名前野々村芳和(ノノムラヨシカズ)
生年月日1972年5月8日
日本
出身静岡県清水市
プロフィール小学1年生からサッカーを始め、清水FCなどに所属。発作と戦いながら清水東高から慶大に進学。20歳で心臓病を克服。

1995年ジェフ市原に入団。攻撃的MFとしてレギュラーを奪うも、5年目に出場機会を減らし1999年退団。2000年コンサドーレ札幌に移籍。ボランチとして攻守のバランス役を務め、J2優勝に貢献。2001年チームのキャプテンに就任し22試合に出場。同年29歳の若さで現役引退。

引退後も同チームのアドバイザーを務めながら、解説者生活をスタート。2006年には、株式会社クラッキを設立して代表取締役に就任。2009年、小樽FCで一時的に現役復帰。

2013年コンサドーレの運営会社である株式会社北海道フットボールクラブ(HFC)顧問に就任。同年3月、代表取締役に就任。OBによるクラブの社長という異色の経歴ながら、経営改革に乗り出して観客動員増に成功。2016年にはJ2優勝して、5年ぶりにJ1復帰を決定。

慶応義塾大学卒。175センチ、67キロ。

発作に苦しみながらサッカーを続け、20歳で心臓病を克服

野々村芳和は、サッカー王国静岡県清水市に生まれ、小学1年生からサッカーを始めます。一時、強豪・清水FCにも所属して、腕を磨きました。しかし、6年生の頃から原因不明の発作に悩まされます。心臓病を疑うもそう診断されず、試合中に度々発作に襲われるようになりました。清水第四中学から、清水東へ進学し、多くのライバルたちに出会います。チームは高校サッカー選手権大会にも2度出場しましたが、発作でフル出場できなくなることもあり全国制覇はできませんでした。

しかし発作と長く付き合ううちに、自身で心臓をコントロールできるようになります。メンタル面を鍛えることによって、発作が起きたときにもなだめる術を身につけていました。慶應義塾大学に進学すると、サッカー部主将としてチームを牽引します。すると20歳の頃、初めて心臓病と診断されて手術を受けました。病気を克服するとMFとして活躍し、チームの2年連続関東2部優勝などに大きく貢献しました。

ジェフ市原でレギュラーを掴むも、出場機会を減らして退団

1995年、Jリーグ・ジェフユナイテッド市原へ入団すると、開幕戦からベンチ入りします。ルーキーイヤーは、リーグ戦15試合に出場し、チームとしては過去3年間で最高の5位に入りました。翌年は、ナビスコカップにほぼフル出場、リーグ戦は半数以上に出場するまでチーム内のポジションを確保します。こうして攻撃手MFとして頭角を現すと、1997年のリーグ戦には、全32試合中31試合に出場するレギュラーとなりました。翌1998年、23試合と出場機会を少し減らしますが、ナビスコカップには全6試合に出場します。決勝戦もフル出場しましたが、ジュビロ磐田に0-4と完敗し、クラブ初タイトルは実現できませんでした。

ところが、1999年は野々村芳和の状況が一変します。監督が代わると出場機会が減り始め、夏には解雇騒動にも発展しました。結局同年の出場は9試合に終わり、かつてジェフの美杉淳と呼ばれた若大将は、同年限りでチームを去ることになりました。

コンサドーレ札幌のJ1昇格に貢献し、29歳の若さで現役引退

2000年、自身にとって未開の土地だった札幌を本拠地とするコンサドーレ札幌へ移籍します。当時J2を戦うチームでしたが、前年に元日本代表監督の岡田武史が監督に就任するなど注目されていました。野々村芳和は、ボランチレギュラーを務め、頭脳派ゲームメーカーとして機能します。全40試合中の36試合に出場して、好調のチームを牽引し、J2独走優勝を実現しました。

2年ぶりにJ1の舞台に返り咲き、開幕連勝を飾ると、1stステージでは16チーム中の8位と好位置をキープします。総合力で劣るチームは、2ndステージで14位に沈みましたが、総合11位でJ1残留を決めました。野々村は主将として22試合に出場して貢献しましたが、29歳という若さで現役引退を決意します。同年限りで、岡田監督もチームを去りました。

引退後は、解説者や経営者転身、現役復帰など精力的に活動

現役引退後は、コンサドーレ札幌のアドバイザーを務めつつ、解説者としての活動をスタートします。衛星方法スカパーで、日本国内のみならず海外サッカーなどの解説を年間200試合以上も務めました。現在も放送されているスカパー「Jリーグラボ」では、大物ゲストとの対談が人気となっています。こうしたMC活動もこなし、そのキャラクターと歯に衣着せぬコメントなどで人気を博しました。

2006年には、株式会社クラッキを設立し、代表取締役に就任します。サッカースクールの運営を始め、元Jリーガーのマネジメントなどを行うという経営者としての顔を増やしました。その間も、北海道サッカー界の活性化を目的として、小樽FCで再びユニフォームにも袖を通します。存続危機に陥っていたチームに、かつての同僚を集めて、2011年まで所属していました。

コンサドーレ運営会社社長として辣腕ぶりを発揮し経営改革中

2013年、コンサドーレの運営会社である株式会社北海道フットボールクラブ(HFC)の顧問に就任すると、3月に同社社長就任します。クラブの社長に元選手が就くという日本ではまだまだ珍しい形が実現しました。自身もOBとして関わったコンサドーレ札幌は、同年から再びJ2へ降格、クラブ経営状況としても債務超過という問題山積みでスタートします。予算が大幅に削られた状態でしたが、選手にかける金額は減らさず、様々な企画で経営改革に乗り出しました。

これまで北海道で培った自身の顔も広告塔として積極的に活用し、アジアへのファン層拡大に乗り出します。広告代理店との長期大型契約も取り付け、社長とのディナー特典付チケットを発売するなどユニークな取組みも実現しました。また元選手としてのパイプも生かし、小野伸二や稲本潤一ら元日本代表のビックネームの招集にも成功します。こうして観客動員を増やしながらも、戦力を安定させると、2016年には3度目のJ2優勝を実現しました。まさに経営者としての実力を存分に発揮し、チームも5年ぶりにJ1でプレーが確定しました。しかし、野々村芳和は、北海道スポーツ界の中心的存在になるべく活動の手を緩めることはありません。

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