名前近藤和彦(コンドウカズヒコ)
生年月日1936年3月2日
日本
出身大阪府高槻市
プロフィール平安高で1953年のセンバツに出場。1954年明大に進み、2年生の秋から4番を任される。

1958年大洋に入団。天秤の棒をかつぐような格好でバットをかまえる天秤打法を編み出し、ルーキーながら打率.270、13本塁打の好成績を残す。2年目からは打率10傑の常連となり、3割をマークすること6度達成。1960年球団創設初優勝に大きく貢献。

1961年に盗塁王となり、この年サイクル安打も達成。1973年近鉄に移籍し、同年引退。

大洋打撃コーチとなり、1988年11月日ハムコーチ、1991年二軍監督、1992〜1994年一軍ヘッドコーチを務め、1997年韓国ハンファ・イーグルス打撃コーチに就任。球史に残る左打者として活躍した。2002年多臓器不全にて死去。

通算成績は1,789試合、6,081打数1,736安打、109本塁打、483打点、159盗塁、打率.285。盗塁王1回、最多安打1回、ベストナイン7回。平安高校卒、明治大学卒、左投左打、179cm、79kg

明治大学時代に大きく頭角を現し、ベストナイン3度受賞

近藤和彦は、大阪府高槻市に生まれ、中学時代は母親の勧めで剣道を始めます。そして、すでに甲子園常連校となっていた京都平安高校へ進学しました。入学した年の夏、チームが甲子園に出場し、2度目の全国制覇という偉業を達成します。自身に出番はありませんでしたが、投手を目指し監督に志願しました。ところが、その希望は叶えられず野手レギュラーにも届きません。3年春にセンバツに選出されて初出場しましたが、そのときの出番は3年間務めた代打でした。

卒業後、明治大学に進学すると、2年生から4番を任されるほど才能が開花します。2年先輩に秋山登、土井淳の黄金バッテリーがおり、1955年には春季リーグ優勝のみならず全日本大学選手権連覇と明治大学の第1期黄金時代を過ごしました。大先輩たちが卒業後は、優勝の栄冠を味わえませんでしたが、大学4年間でベストナイン3度受賞するなど、同期である立教大学・長嶋茂雄らとしのぎを削りました。

天秤打法を完成させてレギュラーを奪うも、新人王を逃す

1958年、秋山登ら明治大学の先輩たちが所属していた大洋ホエールズへの入団が決まります。大洋は、1950年に産声をあげて以降Bクラス常連で、1954年からは4年連続最下位という暗黒時代でした。意気揚々と初のキャンプに挑むも、チームの大先輩から打撃フォームをダメだしされます。確かに近藤和彦は非力であり、プロの速球に力負けしていました。

そこで打撃フォーム変更に取組み、様々なスタイルを模索します。そしてたどり着いたのがバットを横に寝かせるもので、剣道の構えがヒントとなりました。後に天秤打法と呼ばれた新フォームを修得すると、1年目から多くの試合に出場します。当初は代打出場でしたが、外野手や一塁手として起用されて、中盤からは不動の3番打者に定着しました。同年は121試合に出場して、打率.270、13本塁打、37打点とほぼチーム3冠という素晴らしい成績を残します。しかし、新人王はいきなりリーグ2冠王を獲得した長嶋茂雄に奪われ、チームも5年連続の最下位に沈みました。

不動の3番打者として、大洋球団創設初の日本一に貢献

2年目も3番打者として奮闘しましたが、最下位地獄を抜け出せません。するとチーム再建を、前年まで西鉄ライオンズで指揮を執っていた名将・三原脩に託しました。西鉄で3年連続日本一を成し遂げていた三原でしたが、大洋は前年まで6年連続最下位。さすがに、簡単に再建は難しいと思われました。

しかし、就任1年目の1960年、トレードや新人起用、コンバートなど、三原マジックと言われた選手起用で勝利を積み上げていきます。それまで馬車馬のように投げていたエース秋山登を勝てるゲームにだけつぎ込み、僅差の勝利を続けていきました。打線は相変わらずの貧打でしたが、3番近藤和彦、4番桑田武の二人がリードします。近藤は、自身初の打率3割をクリアし、長嶋茂雄と激しい首位打者争いをしました。また勝負どころでは2本のサヨナラ安打を放つなどチームを牽引すると、巨人を下して球団創設初優勝を成し遂げます。そして日本シリーズでは、毎日大映オリオンズと対戦しました。下馬評ではミサイル打線のオリオンズが圧倒的有利でしたが、ここでも三原マジックが冴え渡ります。4戦連続1点差勝利で4連勝し初の日本一を飾りましたが、近藤も15打数6安打と大活躍しました。

投高打低の時代に4度の打率2位でベストナイン7度受賞

その後の大洋は、最下位にこそ落ちませんでしたが不調の時期が続きます。そんな中でも、近藤和彦は安定した打撃で、まさに孤軍奮闘しました。本塁打数はルーキーイヤーの13本がキャリアハイでしたが、長嶋茂雄もライバルと認めた技術は素晴らしく、投高打低と言われた時代に、打率3割を6度達成しています。リーグ2位の打率が実に4度ありましたが、首位打者には手が届きませんでした。

またいわゆる俊足ランナーの部類には入らない走力でしたが、類い稀な走塁技術で7度の二桁盗塁を記録し、1961年には35盗塁でタイトルも獲っています。一塁手や外野手としての守備にも安定感がありベストナインを7度受賞しました。オールスターゲームにも1960年から9年連続で出場し、当時日本記録の9試合連続安打、また史上初のサヨナラ本塁打という記録も持っています。通算2000本安打も間違いないといわれた近藤でしたが、1970年から突如数字を落とし、1973年に移籍した近鉄でも復活できませんでした。

指導者としても活躍するも、66歳の若さで人生の幕を閉じる

引退後は、古巣大洋でコーチ生活をスタートさせます。1985年には、近藤貞雄監督の下、スーパーカートリオと言われた屋敷要、加藤博一、高木豊の打撃向上に一役買いました。近藤貞雄が日本ハムで再び指揮を獲る際にも、打撃コーチとして招聘されます。その手腕は、チームにも認められて、監督が代わった以降も、二軍監督や一軍ヘッドコーチを務めました。

1997年に韓国ハンファ・イーグルスのコーチ就任以降は、ユニフォームから遠ざかります。現在も人気を博すプロ野球マスターリーグの発足にも貢献しましたが、2002年、66歳の若さでこの世を去りました。

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