名前 | 渡辺正人(ワタナベマサト) |
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生年月日 | 1979年4月3日 |
国 | 日本 |
出身 | 大阪府大阪市城東区 |
プロフィール | 関目東小1年から関目ライオンズで野球を始め、菫中時代ボーイズリーグ・大阪北所属。上宮高では1年秋から背番号5でベンチ入り。1997年春のセンバツに出場。高校通算30本塁打。
1998年ドラフト1位でロッテに入団。大きな期待を背負うも、入団3年間をすべて二軍で過ごす。2001年初出場して初安打も記録。守備力で準レギュラーを掴むも打撃が向上しない時期が続く。 若い西岡剛や今江敏晃らの台頭後は、出場機会を減らす。2012年、一度も規定打席に到達させたシーズンを送れずに現役引退。 2013年、BCリーグ・信濃グランセローズ守備・走塁コーチ兼任選手として入団。2015年、石川ミリオンスターズにヘッドコーチ、2016年は同チーム監督として前後期優勝を実現。 通算成績は492試合、677打数140安打、11本塁打、71打点、4盗塁、打率.208。上宮高〔平成10年〕卒、右投右打、183センチ、74キロ |
上宮高校で公式戦44連勝し、センバツでもベスト4を実現
渡辺正人は、大阪府大阪市に生まれ、小学1年生から野球を始めます。関目ライオンズ、大阪北ボーイズリーグに所属し、高校には名門・上宮に進学しました。1年夏は、府大会準々決勝で敗退すると、秋から早くも主力にのし上がります。夏の予選にも1番打者として出場して、厳しい大阪府予選の決勝戦まで勝ちあがりました。相手は、好投手・前川克彦を擁するPL学園で、点の取り合いとなります。渡辺も2安打を放ちましたが、逆転で敗戦し涙を呑みました。
2年秋、上宮新チームは、後にプロ入りするメンバーを多く揃えて相当な強豪となります。練習試合も含めて負け知らずとなり、秋季府大会さらに近畿大会でも優勝して、公式戦44連勝でセンバツ出場を決めました。投手に山田真介、1番渡辺、3番三木仁、4番多井清人という投打に軸がしっかりしていた上宮は初戦から強豪校を次々と退けていきます。横浜商業、明徳義塾、育英を蹴散らせて、ベスト4へ進出しました。5大会ぶりの全国制覇が近づきましたが、準決勝では天理高校に逆転で敗れます。3年夏は、甲子園帰還は実現できませんでしたが、渡辺は秋のドラフトを前にして注目を集めました。
期待のドラフト1位入団も、守備固め起用から抜け出せず
1997年、ドラフト会議では千葉ロッテマリーンズが、1位で渡辺正人を指名します。背番号3を託されたことからも、期待の高さが伺えました。マスコミからも、将来の内野陣を背負う「堀幸一2世」と称されます。もちろん高卒ということもあって、まずはファームスタートとなりましたが、近い将来に頭角を現してくることを期待されました。
しかし、入団2年間、いわゆるシーズン終盤の顔見せ程度の一軍出場機会も訪れません。3年目を迎える前に、早くも背番号3を奪われて、40番へ変更となりました。結局3年間すべてを二軍で過ごすと、4年目の2001年、ようやく待ちに待った一軍試合に出場します。わずか21試合でしたが、プロ初安打を記録し、守備でも二塁、三塁、遊撃と器用さを見せました。2002年は、正遊撃手・小坂誠が開幕前に故障したため、9番打者ながら多くのスタメン機会を掴みます。小阪復帰後は、守備固めメインとなりましたが、106試合という多くの試合を経験しました。2003年も課題の打撃向上できず、守備での起用が多くなりましたが、一軍に帯同して、2年連続100試合出場を達成しました。
ライバルの台頭でレギュラーが遠のくも、大舞台で輝きを放つ
守備力を武器に一軍に定着した渡辺正人は、レギュラーを目指します。しかし、2004年序盤に左手骨折に加え、西岡剛や今江敏晃らが台頭して、大幅に出場機会を減らしました。翌2005年は、その二人がレギュラーを奪ったことで、シーズンわずか20試合出場に終わります。しかし、小坂誠の故障で日本シリーズ第1戦の先発出場機会が回ってきました。得意の守備でビッグプレーを生み出し、ロッテに流れを持ってくると4連勝で日本一に上り詰めます。続くアジアシリーズ決勝戦でも、途中出場から本塁打を放つなど大舞台での強さを見せました。
守備固めという役割以上の貢献が出来ずに、実働12年で引退
2005年オフに、小坂誠が移籍したことで、2006年は再び守備固め要員として出場試合数を延ばします。しかし打撃面での貢献はほとんどできず、準レギュラーの地位を抜け出せませんでした。翌年から、再び出場機会を減らすと、2009年からは2年連続で一桁台の試合しか出場できません。2011年は、チーム内に怪我人が出たことで、54試合に出場しましたが、打率は1割台に終わりました。2012年は、一軍定着以降ワーストの2試合出場に終わり、ついに球団から戦力外通告を受けます。ドラフト1位という最高の評価を受けながら、一度も規定打席到達することも、レギュラーとして働くことも出来ず現役引退することになりました。
独立リーグで監督に就任すると、守備を鍛えて前後期完全優勝
2013年から、渡辺正人は主戦場を独立リーグに移します。BCリーグ・信濃グランセローズに守備・走塁コーチ兼任選手として入団しました。一段レベルが落ちるリーグでは、元NPB選手として、高い長打力を披露します。1年半のプレー後、選手契約を解除されてコーチ選任となり、2014年限りで退団しました。
2015年からは、同じくBCリーグの石川ミリオンスターズにヘッドコーチとして入団します。当時チームの監督は、かつてのチームメイトのフリオ・フランコが務めており、何度も対戦した武蔵ヒートベアーズには、監督代行として小林宏之がいるなど、ロッテOBたちが集いました。2016年からは、石川の監督に就任すると、7年ぶりに前期後期完全優勝という結果をもたらします。年間チャンピオンシップには敗れましたが、前年大きく守備で乱れたチームを立て直した手腕は大いに評価されました。さすがは、NPB時代に守備で一軍に定着していた渡辺ならではの成果でした。