名前 | 大村巌(オオムライワオ) |
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生年月日 | 1969年5月31日 |
国 | 日本 |
出身 | 北海道稚内市 |
プロフィール | 東海大四高のエースで北海道一の剛速球投手と目される。1986年夏の甲子園に出場し、伊良部秀輝から本塁打を放って注目される。
1988年ドラフト6位でロッテに投手として入団、内野手に転向。1989年ジュニアオールスターゲームでMVPを獲得。のち外野手となる。1993年にプロ初安打、初本塁打を記録。1996年から、出場機会を増やし、外野手の準レギュラーの地位を確保。 1999年には、クリーンナップを任されることも多く、13本塁打、52打点とキャリアハイの成績をマーク。2000年、突発性難聴に怪我が重なり、出場機会が激減。2003年は出場機会ゼロに終わり、同年現役引退。 解説者生活を経て、2006年から日本ハムコーチに就任。対話型の指導スタイルで、多くの打者を育成し、2度のリーグ優勝に貢献。2013年からはDeNAコーチとして筒香嘉智の育成の貢献。2016年から古巣に打撃コーチとして復帰。 通算成績は441試合、1,158打数310安打、36本塁打、174打点、3盗塁、打率.268。東海大四高卒、186センチ、88キロ。右投右打 |
甲子園で豪腕・伊良部秀輝から同点本塁打を放ち、勝利に貢献
大村巌は、日本最北端の北海道稚内市に生まれて、幼少期を過ごします。稚内野球スポーツ少年団で野球を始め、地元の稚内中学へ進学しました。高校進学時は甲子園出場を夢見て、札幌の東海大四高校を選択します。1年時は、南北海道予選でベスト8にも残れませんでしたが、エースで4番となった2年、その右腕でチームを甲子園出場に導きました。
春夏通じて5度目の出場を決めた東海大四高校は、甲子園初勝利を目指します。その初戦では同じく2年生豪腕エース・伊良部秀輝を擁する尽誠学園との戦いとなりました。先制点を奪いましたが、すぐさま逆転され1点ビハインドで9回へ突入します。先発した大村は一度マウンドを譲りましたが、6回からの3イニングを無失点でしのぎ、9回裏先頭打者として打席に立ちました。そして、この場面で伊良部から起死回生の同点アーチを放つと、その後、内野安打などでチャンスを掴んで見事にサヨナラ勝利しました。
ロッテ入団後に打者転向すると、長い下積み生活を強いられる
1987年、ドラフト会議では、長嶋茂雄の長男・一茂や甲子園春夏連覇を飾った立浪和義(P学園)らに注目が集まります。伊良部秀輝がロッテオリオンズから1位指名される中、大村巌も最終の6位で指名されてチームメイトとなりました。186センチの高身長投手としての入団でしたが、即打者転向となります。本格的な内野手としての練習も開始したため、プロ入り後しばらくの間をファームで過ごすことになりました。
1989年には、ジュニアオールスターで2安打を放ち、MVP獲得するなど順調に成長した姿を見せます。その後はさらに打撃を生かすために、外野手転向となりました。入団から丸4年で一軍出場機会は訪れず、長い二軍生活でしたが熱心に練習に力を入れます。そして、プロ5年目の1992年シーズン終盤に、7番左翼手として初の一軍出場が実現しました。同年の一軍経験は、同試合の3打席に終わりプロ初安打は持ち越しとなります。そして、翌年、少ないながらも出場機会を増やし、プロ初安打、初本塁打を記録しました。
準レギュラー獲得も、病気と怪我で出場機会が激減し引退
1996年からは、一軍に定着するようになり、バットでチームに貢献し始めます。同年は、76試合の出場で規定打席到達には半分にも届きませんでしたが、打率.312にチーム3位の8本塁打と長打力を見せました。準レギュラーという地位を手に入れると、1998年には95試合出場して、初めて年間300打席近くを経験します。1999年には、3番や5番打者を任されるようになり、打率.276、13本塁打、52打点と本塁打と打点でキャリアハイの成績を残しました。
完全レギュラー獲得といきたいところでしたが、2000年から出場機会を激減させます。その原因は、突発性難聴に、相次ぐ怪我と悔しいものでした。特徴である長打力は鳴りを潜めて、安打数すら一桁台に落ち込みます。2002年にはわずか4試合の出場でノーヒットに終わると、2003年は一度も一軍出場することなく、現役引退を決意しました。
自身の経験を生かした指導方法で中田翔、筒香嘉智らを育成
選手生活を終えた大村巌は、解説者に転身後、指導者として再びユニフォームを着ます。2006年から、北海道日本ハムファイターズの二軍打撃コーチに就任すると、名コーチへの道を歩み始めました。自身も選手時代に様々なコーチに指導を受けましたが、大成せずに終わったことを受けて、まずは選手との対話を重視します。徹底的に耳を傾けることで、その選手にあった最適な方法を模索するというコーチングに徹しました。
こうした指導方法は選手たちからの信頼も得て、糸井嘉男や中田翔といった大打者育成につながります。その手腕がチームGMにも大きく評価されて一軍打撃コーチ昇格となりました。大村の指導はチーム打率向上を引き起こし、2009年、2012年のリーグ優勝にも貢献します。日本ハムには7年間という長い期間、コーチを務めました。
2013年からは、横浜DeNAベイスターズ二軍打撃コーチに就任します。そして、筒香嘉智という天才バッターの覚醒を任されました。誰もが認める天性のホームランバッターでしたが、前年は規定打席到達者中の最下位の打率に苦しみます。今回も、日本ハム時代同様に徹底的に話を聞くことから始めました。理想的なバッティングスタイルを共有すると、2014年から明らかに変貌を遂げます。22本塁打、77打点と長距離バッターとして独り立ちさせると、2015年には自身も一軍打撃コーチに昇格して、24本塁打、93打点というさらなる成長に大きく貢献しました。
育成手腕が評価されて、古巣ロッテに打撃コーチとして復帰
2016年、教え子の筒香嘉智は、本塁打と打点でセ・リーグ2冠王に輝き、チームを初のクライマックスシリーズ進出へ導きます。日本代表にも選出されるようになり、中田翔から4番の座を奪うほどになっていた頃、大村巌は古巣からのコーチ就任要請を受けました。今江敏晃がFAでチームを去り、早期の若手育成を任されます。平沢大河や井上晴哉といったロッテを背負うべき若い金の卵に対して、指導をスタートさせています。