名前 | 中村勝広(ナカムラカツヒロ) |
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生年月日 | 1949年6月6日 |
国 | 日本 |
出身 | 千葉県山武郡九十九里町 |
プロフィール | 成東高を経て早大に進み、2塁手で主将を務める。
1972年ドラフト2位で阪神タイガースに入団、2塁手として活躍。1978年1シーズン守備率.995の日本記録をマーク。1982年に現役引退。 1983年から阪神二軍監督就任。1986年ウエスタン優勝。その後は一軍コーチを務め、1989年から評論家。同年9月阪神監督に就任。1990年から2年連続最下位。しかし、1992年は若手への切り替えおよび守り重視の野球で2位躍進。翌年から再びBクラスへ転落するも、阪神監督史上最長6年を務める。 2003年秋からはオリックス球団幹部として入団。2006年に、1年だけ監督を務めるも5位に終わる。2012年8月、阪神のGM就任。選手獲得などでチームに大きく貢献し、2014年は日本シリーズ進出。2015年9月、優勝争いが佳境の中、ホテルで急死。 通算成績は939試合、2,635打数648安打、76本塁打、219打点、74盗塁、打率.246。成東高卒、早稲田大学卒、右投右打、177cm、65kg |
早稲田大学時代、主将としてチームを牽引するも優勝味わえず
中村勝広は、千葉県山武郡で生まれ、地元の成東高校へ進学します。当時、成東高校は甲子園出場経験ゼロで、中村も1年時は初戦敗退、2年時は準々決勝敗退と夏予選で早々に姿を消しました。3年時はついに千葉予選を制しましたが、当時は1県1代表制ではなく、続いて東関東大会へ進出します。その初戦で竜ヶ崎一高に敗れて、同校初の甲子園出場を逃しました。
卒業後は、早稲田大学へ進学して野球を続けます。先輩。・谷沢健一らの活躍で、自身1年秋に優勝を成し遂げましたが出番無しに終わりました。3年から内野手レギュラーを務めましたが、当時、田淵幸一率いる法政大学が黄金時代を築いており優勝を味わえません。それでも、類稀なリーダーシップで主将を務め、4年秋季には二塁手ベストナインに輝きました。
高い守備力で阪神二塁手レギュラーを務め、実働11年で引退
1971年ドラフト会議では、阪神タイガースから2位指名されます。東京六大学の実績もさることながら、将来の指導者候補としても高い評価を受けていました。1年目から積極的に起用されて、3本塁打を放ちましたが打率.175と安定性に欠きます。当時の正二塁手は安藤統男、控え・野田征稔でしたが、安藤の引退した1974年、安定した守備力でレギュラーを奪いました。
1975年には、打撃開眼して打率.280、16本塁打、43打点を記録し、1番打者としてフル出場を達成します。球団記録の6本の先頭打者本塁打、当時の日本記録である1試合11補殺など攻守でチームに貢献しました。1978年には、当時の二塁手日本記録であるシーズン守備率.995を樹立します。しかし、1979年に榊原吉行が台頭し、翌年に岡田彰布が入団するとコーチ兼任を経て、1982年限りで現役引退しました。
すでに暗黒時代だった阪神監督に着任して2年連続最下位
引退後は、かねてより期待されていた指導者への道を歩み始めます。1983年に阪神二軍監督に就任すると、4年目にウエスタンリーグ優勝を実現しました。1988年は一軍コーチに就任するも、村山実監督との確執が噂されて1年で辞任します。しかし、翌年村山監督辞任に伴い、自身が一軍監督に就任しました。
1985年に、21年ぶりのリーグ優勝をしていた阪神でしたが、2年後には最下位に沈みます。村山監督時代も6位、5位と、中村勝広がチームを引き継いだときにはすでに暗黒時代がスタートしていました。チームを立て直したいところでしたが、外国人や新戦力に泣かされます。前年ヤクルトで本塁打王を獲得したラリー・パリッシュは、シーズン途中で突然引退、前年まで3年連続二桁勝利のエース・マット・キーオも7勝止まり。さらにトレードで獲得した選手は活躍できず、逆に放出した選手が大活躍という負のスパイラルに陥ります。結局、就任1年目から2年連続最下位という球団史上初という悪しき歴史を作ってしまいました。
守りの野球、世代交代を推し進めて、久々優勝争いの主役
就任3年目、甲子園のラッキーゾーンが撤廃されたことを契機に、守りの野球にチェンジします。仲田幸司、湯舟敏郎、中込伸、野田浩司ら前年まで、実戦で育成してきた先発投手たちが活躍し、さらに新庄剛志、亀山努の若手外野手を大抜擢すると、優勝争いの主役に躍り出ました。リーグダントツのチーム防御率2.90を樹立しましたが、リーグワーストの本塁打、5位のチーム打率などでヤクルトに逆転優勝を許します。それでも、世代交代を強力に推し進めての2位確保した手腕は大いに評価されました。
1993年からは2年連続4位、さらに1995年は三度目の最下位と、阪神監督史上最長監督キャリアとなりましたが再びBクラス常連へ逆戻りします。この間も、野田浩司、オマリーなどトレードで放出した選手が移籍先で大活躍するという不運に見舞われて、1995年シーン途中で辞任しました。
オリックス球団幹部として入団し、チーム事情で監督も務める
その後解説者や評論家生活を経て、2003年秋にオリックス・ブル-ウェーブのGMに就任します。かつて、イチローを擁して黄金時代を築き上げたチームでしたが、近鉄との統合など激動の時代が到来し、毎年のように監督交代が繰り返されました。2005年、仰木彬監督が再登板しましたが、1年で勇退したため、中村勝広が11年ぶりに監督としてユニフォームを着ます。清原和博、中村紀洋の獲得、さらに外国人も多く補強して強力打線を形成しましたが、軒並み不振で一度も優勝争いに加わることなく5位に終わりました。1年で監督を退任しましたがその後も球団に残り、再びフロント側で腕を振るいます。阪神同様に、着実に世代交代を進め、2008年の2位躍進に裏方として貢献しました。
阪神にGMとして復帰し、選手獲得で貢献する中まさかの急死
2012年8月、古巣阪神から低迷するチームの再建のため、GM就任要請を受けます。2003年に星野仙一監督、2005年に岡田彰布監督の元でそれぞれリーグ優勝を実現しましたが、以後再び低迷期を迎えていました。GMらしく、メジャー帰りの西岡剛、福留孝介の獲得に貢献して、チームへ送り込みます。しかし、即活躍とはいかずに、批判の対象ともなりました。それでもチーム補強を継続すると、2014年には、呉昇桓、マウロ・ゴメスがいきなりタイトル獲得、すでに在籍していたマット・マートン、ランディ・メッセンジャーとともに4人の外国人全員がタイトルホルダーとなります。同年は、シーズン2位からの日本シリーズ進出も実現しました。
2015年の阪神は、チーム打率3位、チーム防御率5位ながら、大混戦のセ・リーグ優勝争いに加わります。ヤクルト、巨人と激しいデッドヒートを繰り広げる中、まさかの訃報が飛び込んできました。同年9月22日の巨人戦を観戦して、ホテルに宿泊した中村でしたが、そのまま帰らぬ人となります。脳出血というまさかの急死で阪神はGMを失いました。中村は、選手時代、指導者時代を通じて一度も優勝を経験することがありませんでした。