名前平田勝男(ヒラタカツオ)
生年月日1959年7月31日
日本
出身長崎県松浦市
プロフィール長崎海星高校時代の2年夏、3年春に甲子園出場。明治大学では8季中4度リーグ戦優勝し、毎年全国大会優勝も経験。ベストナイン4回に最高のバント技術などでチームを牽引。

1981年、ドラフト2位で阪神に入団。1984年、遊撃手のポジションを奪うと、翌1985年は、7番打者ながら50打点をクリアして、チーム38年ぶりの日本一に貢献。1984年から4年連続でゴールデングラブ賞受賞。1988年、和田豊にレギュラーを奪われるも、安定した守備とバント技術、ムードメーカーとしていぶし銀の活躍を続ける。1994年引退。

1997年コーチ就任。2002年、星野仙一監督の専属広報兼専属運転手に転身。2004年、一軍ヘッドコーチ就任。2006-2011、2012-2013の間、阪神二軍監督を歴任。2014年、21U代表監督。2016年から一軍チーフ兼守備走塁コーチ就任。

通算成績は979試合、2,450打数633安打、23本塁打、220打点、19盗塁、打率.258。ゴールデングラブ賞4回。海星高校卒、明治大学卒、右投右打、177cm、78kg

甲子園出場、大学日本一4回など輝かしいアマ実績を挙げる

平田勝男は、長崎県松浦市で生まれて海星高校へ進学します。自身2年時には、遊撃手レギュラーを奪い、1年先輩の好投手・酒井圭一を擁して夏の甲子園に出場しました。酒井は甲子園でも奪三振ショーを見せて、チームを準決勝へ進出させます。PL学園との対戦は、1回戦に続いて延長戦となりましたが、惜しくも敗れました。2年秋からの新チームでは、平田が主将となり打撃中心のチームへと変貌を遂げます。秋の長崎県大会優勝、九州大会でも準優勝して2季連続の甲子園出場を決めました。選手宣誓という大役もこなし、前回大会同様の快進撃が期待されましたが、初戦で涙を呑みます。3年最期の夏は、長崎県予選で優勝するも代表決定戦で敗れました。

卒業後は明治大学へ進学して、名将・島岡吉郎監督の指導を受けます。在学中8度のチャンスで4度リーグ戦を制し、さらに全日本大学野球選手兼大会優勝3回、明治神宮野球大会優勝と、毎年全国制覇を実現しました。自身も通算打率は3割を超え、遊撃手としてベストナイン4回受賞します。何より、当時から犠牲バントにかけては天下一品の技術力を有していました。

チーム事情で遊撃手に抜擢されると、守備力でレギュラー奪取

守備は一球品でしたが、打撃に難があったため、卒業後は社会人へ進むことを決意していました。しかし、1981年ドラフト会議で、阪神タイガースから2位指名という高評価を受けます。当初、入団に前向きではありませんでしたが、一転して阪神の一員となりました。

遊撃手レギュラーには、打撃力のある真弓明信がいたため、ルーキーイヤーは23試合の出場に終わります。しかし、翌1983年、二塁手レギュラーの岡田彰布が長期戦線離脱した際、真弓を代役二塁手に配置し、平田を遊撃手として起用しました。同年100試合に出場して、打率は.250ながら、鉄壁な守備を披露します。1984年、岡田が怪我から復帰しても、真弓を外野手へコンバートしてまで平田を遊撃手に固定すると、初のゴールデングラブ賞を受賞して結果を出しました。

バットでも活躍して、阪神38年ぶりの日本一に大きく貢献

1985年、阪神は伝説のバックスクリーン3連発など、好調なスタートを切ります。7番遊撃手として固定されていた平田勝男も、一時的ながら打率リーグトップに踊り出るなどバットでも貢献しました。その後、打率は落ちていきましたが、鉄壁な守備、そして1試合4犠打を決めるなど献身的な働きを続けます。チームは、ランディ・バースを中心とした強力打線で、夏場に一度首位を明け渡しましたが、見事リーグ優勝を飾りました。自ら「自衛隊」と名乗る守備の人でしたが、キャリアハイの53打点をマークします。10月には、野球人生初となる満塁弾を甲子園に叩き込みました。

自身初の日本シリーズも、全6試合にフル出場し、第4戦以外で安打を放ちます。チームは最強西武ライオンズを下して38年ぶりの日本一を勝ち取り、シーズンオフには、2年連続でゴールデングラブ賞に輝きました。

リーグ随一の名手として4年連続ゴールデングラブ賞獲得

連覇を狙った1986年、主砲バースが2年連続3冠王を獲得しましたが、主力選手の故障が響き、3位に終わります。1987年は投手陣が崩壊し、掛布雅之、岡田彰布らの不振で勝率3割台の最下位に沈みました。2年前に、日本一を達成した球団とは思えない凋落ぶりでしたが、毎年120試合以上に出場して、100安打以上を継続して達成します。そして獲得し続けていたゴールデングラブ賞受賞も4年連続に伸ばしました。まさに、流れるようなスローイングには定評があり、吉田義男を形容した「蝶が舞い蜂が刺す」のスタイルを継承します。生涯で19盗塁と決して足が早いわけではありませんでしたが、頭脳的なポジショニングで広い守備範囲を誇りました。

レギュラーを奪われるも、少ないチャンスにいぶし銀の活躍

阪神は低迷が続いたこともあって、世代交代を推し進めます。1988年、当時まだ28歳だった平田勝男でしたが、3歳年下の和田豊に遊撃手レギュラーを奪われました。同年から100試合出場することはなくなりましたが、堅い守備そして名人級のバント技術で、いぶし銀の活躍を続けます。さらに、試合に出場しない日でも、明るい性格で大声を出し続けて、ムードメーカーを務めました。それでも、毎年少しずつ出場試合数を減らし、1994年限りで引退を決意します。最期の試合では、打てのサインにもかかわらず自らの判断で送りバントして、チームの同点を呼び込みました。

阪神コーチ、二軍監督を長年歴任し、現在もコーチとして活躍

現役引退後、しばらくの解説者生活を経て、阪神のコーチに就任します。現役時代、たった一つのグラブで過ごした抜群の守備力を伝授する仕事を開始しました。2002年に、大学の先輩である星野仙一が阪神監督に就任すると、監督専属の広報兼運転手に転身します。星野監督勇退後は、ヘッドコーチとして岡田彰布監督を支えました。2007年からは、5シーズンにわたって二軍監督を歴任します。2年をはさんで再び二軍監督を務めると、2014年には侍ジャパン21U代表監督としても活躍しました。2015年から、一軍コーチとして復帰し、2017年も一軍チーフ兼守備走塁コーチを務めています。


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