名前鹿取義隆(カトリヨシタカ)
生年月日1957年3月10日
日本
出身高知県香美市
プロフィール高知商時代、2年夏に控え投手として甲子園に出場。明治大学で島岡吉郎監督の指導の下、主力投手となる。4年春にリーグ優勝、全日本大学野球選手権優勝。

1977年ドラフト外で巨人に入団。貴重な中継ぎとしてルーキーから活躍してブルペンの柱となる。1987年にはリーグ最多の63試合に登板し、7勝4敗18Sをマーク。MVP選出されなかったが優勝の立役者となる。

1990年西武へトレード移籍し、5月ダイエー戦で10連続セーブの日本新記録を樹立。同年は24Sで最優秀救援投手のタイトル獲得。1996年5月対日ハム戦で通算211セーブのプロ野球新記録を達成。パ・リーグ5連覇を達成するなど西武黄金時代のリリーフを支え続ける。1997年シーズン終了後引退。

1998年巨人二軍、のち一軍投手コーチに就任。2000年11月退団し、2001年米国大リーグ・ドジャース傘下の1Aベロビーチにアシスタントコーチとして参加。同年シーズン終了後、巨人一軍投手コーチに再任。2006年、第1回WBC日本代表投手コーチとして優勝に貢献。2014年侍ジャパンU-15日本代表監督就任。2017年、巨人GM特別補佐就任し、6月にGM昇格。

通算成績は756試合、91勝46敗131S、防御率2.76、1,306回1/3、846奪三振。最優秀救援投手1回。高知商業卒、明治大学卒、右投右打、174cm、78kg

明治大学時代に大きく頭角を現し、大学日本代表にも選出

鹿取義隆は、高知県香美市で生まれ、幼い頃から野球を始めます。野球の名門・高知商業高校に進学すると、捕手から投手へ転向しました。当時すでに甲子園常連校となっており、自身1年時も全国ベスト4を実現します。その時は、出番がありませんでしたが、2年時は背番号10の控え投手としてベンチ入りしました。広島商業との準々決勝で初めて登板機会が回ってきましたが、達川光男に本塁打を打たれてチームも敗れます。3年連続出場を狙った3年夏は、3回戦で高知高校の前に屈しました。

卒業後は、多くの先輩たちが在籍していた明治大学へ進学します。名将・島岡吉郎監督の厳しい指導の下、毎日400球の投げ込みもこなして主力投手へと成長しました。当時は、1学年上の江川卓の全盛期であり、法政大学が4連覇を飾ります。江川不在となった4年春に自身が活躍して初めての優勝を手にしました。そして、全国大学野球選手権でも専修大学を完封して優勝を成し遂げます。前年から日米野球日本代表に選出されるようになり、大学通算でも防御率1点台という好成績を残しました。

社会人入り内定も、江川卓騒動余波で巨人ドラフト外入団

社会人野球に進む予定でしたが、大学時代のライバル江川卓の存在で大きく運命が変わります。江川は3度目のドラフト会議でも、意中の巨人に入団できず、野球協約の盲点をついて強行に巨人と契約しました(空白の一日)。当時のコミッショナーはそれを無効とし、さらに反発した巨人は1978年のドラフトをボイコットします。しかし、戦力補強をしないわけにはいかず、大量10人もの選手をドラフト外で契約しました。その中で、唯一活躍した選手こそ、鹿取義隆です。また、後にチームメイトとなった江川との良き相談相手を務めました。

新人から活躍して、巨人ブルペンに不可欠な存在となる

1979年、ルーキーイヤーの開幕戦からリリーフで登板するなど、貴重な右サイドスロー投手としていきなり38試合に登板します。同年秋、世代交代を推し進めた伊東キャンプで揉まれると、翌年は51試合登板の防御率1.78という素晴らしい成績で、巨人ブルペンを支えました。1982年からはローテーションの谷間に先発も任されるなど、無類のスタミナを披露します。1983年には初めて日本シリーズで登板機会を得ると、4試合4回1/3を無失点に抑えました。

シーズン約半数に登板して、王貞治監督の初優勝に貢献

1984年から着任した巨人王貞治監督は、鹿取義隆が人よりも早く肩が出来上がるという大きな特徴を生かして勝ちゲームにどんどんつぎ込むようになります。それが顕著だったのが、監督就任4年目にして初のリーグ優勝を実現した1987年でした。全試合のほぼ半数にあたるリーグ最多の63試合に登板して、7勝4敗18セーブ、そして脅威の防御率1.90を記録します。王監督が、審判に告げる「ピッチャー鹿取」は流行語にすらなり、ファンからは鹿取大明神と呼ばれました。MVP投票で1位票を最も多く集めましたが、トータルでは山倉和博に奪われます。それでも優勝の大きな立役者として活躍したことは、揺ぎ無い事実でした。

移籍した西武でもリリーフを支えて、リーグ5連覇に貢献

王貞治体制では5年で1度の優勝に終わり、1989年から藤田元司監督が着任します。この頃、投手の世代交代も進み、斉藤雅樹、桑田真澄、槙原寛己の新先発3本柱が確立、そして先発完投型スタイルがチームの主流となりました。おのずと鹿取義隆の登板数は前年の半数程度に抑えられます。出場機会を求めて移籍を直訴し、オフに西武ライオンズへのトレードが決まりました。

すでに黄金時代に突入していた西武でも、当時の日本記録10試合連続セーブをマークするなど抑えの切り札として活躍します。ルーキーでセットアッパーを務めた潮崎哲也とともに、終盤のリリーフを支えました。同年は24セーブで最優秀救援投手のタイトルを奪い、古巣巨人との日本シリーズでも活躍します。1993年に杉山賢人が入団すると、潮崎を加えた3人がサンフレッチェと呼ばれて磐石に試合をクローズさせました。ベテランながら毎年安定した成績を残して、パ・リーグ5連覇に大きく貢献します。40歳で迎えた1997年、故障から球威を落とし現役引退を決意しました。プロ19年間で、755試合登板、91勝46敗131S、防御率2.76という素晴らしい成績を残します。リリーフメインだったため、歴代通算の勝率上位に名前が出てきませんが、通算勝率.664という数字は、歴代2位の稲尾和久に次ぐ脅威の数字でした。

巨人、日本代表の指導者を経て、低迷する古巣のGM就任

引退後は、2度にわたって古巣巨人の投手コーチを歴任します。2006年には、王貞治から要請を受けて、第1回WBC日本代表の投手コーチとして、日本の優勝に貢献しました。2014年には、中学生以下の侍ジャパンU-15日本代表の監督にも抜擢されます。2017年4月からは、巨人GM特別補佐に就任しましたが、シーズン中にGM兼編成本部長に昇格しました。巨人GMにプロ経験者が就任するのは初めてのことで、不調が続くチーム再建に白羽の矢が立ちます。様々な問題が山積みのチームにおいて、手腕が大きく期待されています。


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